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== 概要 ==
== 概要 ==
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[[四辻公遠]]<ref>[[藤原北家]][[西園寺氏]]の後裔(元来の[[上杉家]]も藤原北家とされる)。</ref>の娘。本名は不詳<ref>富あるいは豊とする説もある。また、姉妹中における出生順は庶長女([[非嫡出子|庶出]]の長女)である説が有力とされる。なお、四辻氏の出自を町人の娘や家人の娘とする説(楠戸義昭『「義」の家の礎となって◆虎御前、菊姫、四辻氏』 [[PHP研究所]]『[[歴史街道]] 2009年05月号』掲載文など)もあるが、現実性や裏付が無いため信憑性は低い。ただし「お与津御寮人事件」([[徳川和子]]入内をめぐる朝幕関係の軋轢の一つ。四辻氏の姉妹であるお与津御寮人は宮中より追放され、彼女たちの兄弟である四辻季継・高倉嗣良が流罪となった。)や後述する山浦光則の処遇などの影響で、彼らの姉妹にして伯母である四辻氏の印象を上杉家から遠ざけるために、彼女の偽った出自が故意に伝えられた可能性も否定できない。</ref>。母は[[杉原氏]](四辻家の[[女中|家女房]]か)。兄弟に[[四辻季継]]、[[高倉嗣良]](後年[[藪嗣良]]と改名)等、姉妹に[[後水尾天皇]]寵姫[[四辻与津子|お与津御寮人]]。甥に[[山浦光則]]等、姪に[[文智女王]]、後水尾天皇寵姫[[四辻継子]]等がいる。一説では上杉家に出入りする商人<ref>景勝が会津に移った頃に家臣の一人が京都で商人となり、上杉家の京都における様々な工作などを行っていたとする伝承がある(「西村由緒記」)。しかし『米沢市史』は「西村由緒記」の内容に関しては全面的に信用ができるとは言い難いとしている。</ref>の斡旋により、[[京都]]で景勝に見初められて側室になったといわれているが{{要出典|date=2008年5月}}、確実な史料は存在せず、側室となった経緯は不明である<ref>四辻氏の祖父である四辻季遠は、武田家との関わりが深い。詳細は[[四辻季遠]]参照。このことから四辻氏が景勝の側室になった件について菊姫が抜擢ないし関与したという説もあるが、これを証明する史料は全く無い。しかし四辻氏は庶出とはいえ公家の実娘かつ長女なので、他の公家や大名、あるいは本文のように上杉家と親密な関係にある豪商などによる斡旋も十分考えられる。なお今福匡は『兼見卿記』に登場する兼続次女(今福は兼続の養女とする)おまん御寮人の後身が四辻氏とする説を唱えている。</ref>。


側室として米沢に入り米沢城に居住して景勝に仕え、景勝の子供を身ごもり、景勝の[[伏見]]滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で上杉家次期当主となる玉丸([[上杉定勝]])を出産した。
側室として米沢に入り米沢城に居住して景勝に仕え、景勝の子供を身ごもり、景勝の[[伏見]]滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で上杉家次期当主となる玉丸([[上杉定勝]])を出産した。

2010年10月25日 (月) 18:38時点における版

桂岩院(けいがんいん、生年不詳 - 慶長9年(1604年8月17日、以下「四辻氏」と記す)は、安土桃山時代江戸時代初期の公家の娘。上杉景勝継室[1]上杉定勝の生母。

概要

四辻公遠[2]の娘。本名は不詳[3]。母は杉原氏(四辻家の家女房か)。兄弟に四辻季継高倉嗣良(後年藪嗣良と改名)等、姉妹に後水尾天皇寵姫お与津御寮人。甥に山浦光則等、姪に文智女王、後水尾天皇寵姫四辻継子等がいる。一説では上杉家に出入りする商人[4]の斡旋により、京都で景勝に見初められて側室になったといわれているが[要出典]、確実な史料は存在せず、側室となった経緯は不明である[5]

側室として米沢に入り米沢城に居住して景勝に仕え、景勝の子供を身ごもり、景勝の伏見滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で上杉家次期当主となる玉丸(上杉定勝)を出産した。

しかし、産後の経過が悪く景勝の命により神社仏閣への快癒祈願や医師の治療など万策を尽くしたが効無く、玉丸出産から3ヵ月余り後、景勝の帰還を待たずして急死。景勝はこの薄幸の愛妾が余りにも早く亡くなったことを深く嘆き、その葬儀を家老直江兼続管轄の下、上杉家菩提寺林泉寺で執り行った。戒名は桂岩院殿月正清佳大姉。墓所は始め米沢林泉寺、のちに寛永6年4月(1629年)景勝の菩提寺でもある米沢極楽寺に移葬 [6]。 米沢極楽寺はもともと中条氏の菩提寺であったが、以後上杉家藩主との関係も深くなり、上杉綱憲の側室二人[7]の墓所とされた。

人物・逸話

四辻氏とその存在自体、そして景勝が彼女を寵愛したことは上杉藩士たちの好意や好感を得られていなかったといわれる。四辻氏の米沢城入り直後に地震が起きたことを、景勝が正室菊姫を差し置いて側室である女を城内に入れた[8]ことへの天罰としたり、彼女があまりにも早く死んだ原因を菊姫の怨霊祟りとする俗説もあるという[要出典]。 この俗説に関しては、菊姫は政略結婚によって上杉家に嫁いだ女性にも関わらず、複数の史書に才色兼備を謳われている程、上杉家中一同の深い敬愛を集める存在であったと伝えられることから、四辻氏という女性の存在自体を認めたくない家臣などが少なからずいた可能性は否定できないとの説もある[9]。しかし、当時、世継ぎのいない大名家を幕府が次々と改易していた事実[10]を考えると、四辻氏は世継ぎを得るために家臣たちの了解と勧めのもと、景勝が自らの側室として納れた女性であった可能性が高い。「上杉家御年譜」によれば、定勝の誕生は直ちに当時景勝が滞在中であった伏見に伝えられ、伏見在中の家臣たちは悉く参賀し慶祝したと記録されている。

その後、上杉家と四辻家には、四辻氏の甥であるキリシタン公卿山浦光則の処遇などを巡る幕府との軋轢などもあった一方、景勝と四辻氏の孫にあたる三代藩主綱勝は、継室として又従姉妹にあたる四辻公理の娘富姫を迎え四辻家との縁をさらに深めている。

脚注

  1. ^ これは誤記であり「側室」と表記するのが正しいという説もあるが、上杉家が正式に提出した系図にも「継室」と記載されており、四辻氏は大納言の位階を有する公家の娘という身分の高い出自の女性であったということに加え、四辻氏所生の定勝は景勝唯一の子として、生まれながら嫡子としての待遇を得ていたことなどから、正室の菊姫の死後、または実子定勝の襲封後(藩主の生母として、篤く追善供養されていたことが当時の記録から窺がわれる)、継室に準ずる扱いないし事実上の継室とされていた可能性もある。
  2. ^ 藤原北家西園寺氏の後裔(元来の上杉家も藤原北家とされる)。
  3. ^ 富あるいは豊とする説もある。また、姉妹中における出生順は庶長女(庶出の長女)である説が有力とされる。なお、四辻氏の出自を町人の娘や家人の娘とする説(楠戸義昭『「義」の家の礎となって◆虎御前、菊姫、四辻氏』 PHP研究所歴史街道 2009年05月号』掲載文など)もあるが、現実性や裏付が無いため信憑性は低い。ただし「お与津御寮人事件」(徳川和子入内をめぐる朝幕関係の軋轢の一つ。四辻氏の姉妹であるお与津御寮人は宮中より追放され、彼女たちの兄弟である四辻季継・高倉嗣良が流罪となった。)や後述する山浦光則の処遇などの影響で、彼らの姉妹にして伯母である四辻氏の印象を上杉家から遠ざけるために、彼女の偽った出自が故意に伝えられた可能性も否定できない。
  4. ^ 景勝が会津に移った頃に家臣の一人が京都で商人となり、上杉家の京都における様々な工作などを行っていたとする伝承がある(「西村由緒記」)。しかし『米沢市史』は「西村由緒記」の内容に関しては全面的に信用ができるとは言い難いとしている。
  5. ^ 四辻氏の祖父である四辻季遠は、武田家との関わりが深い。詳細は四辻季遠参照。このことから四辻氏が景勝の側室になった件について菊姫が抜擢ないし関与したという説もあるが、これを証明する史料は全く無い。しかし四辻氏は庶出とはいえ公家の実娘かつ長女なので、他の公家や大名、あるいは本文のように上杉家と親密な関係にある豪商などによる斡旋も十分考えられる。なお今福匡は『兼見卿記』に登場する兼続次女(今福は兼続の養女とする)おまん御寮人の後身が四辻氏とする説を唱えている。
  6. ^ 移葬の理由は「上杉家御年譜」によれば定勝の「霊夢」による希望であった。もともと四辻家の菩提寺浄土宗の上善寺であり、林泉寺は曹洞宗であったため、実家の菩提寺と同じ宗派である浄土宗の極楽寺への移葬となったものと思われる。翌寛永7年の27回忌は両寺で執行され、その後も四辻氏の追善供養のため定勝が林泉寺を訪ねた記録があることから、極楽寺への移葬後も引き続き林泉寺でも供養が行われていたと推定される。
  7. ^ 上杉吉憲母および上杉治憲曾祖母
  8. ^ 菊姫は1589年から上杉家からの人質として伏見屋敷で暮らしており、上杉家が移封された会津米沢を訪れた事はなかった。
  9. ^ 上杉家御年譜」には四辻氏の米沢入りは隠密の内に行われたと記されている
  10. ^ 慶長7年10月18日(1602年12月1日)に当主小早川秀秋が嗣子のないまま死去したため、岡山小早川氏は幕府によって改易、断絶。

関連項目

登場作品
  • 漫画
河村恵利 『花の君参る 上杉景勝室・菊姫』(秋田書店2009年2月単行本発行。ISBN 4253195865 ※作中における名前は「斎(さい)」。