「フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)」の版間の差分
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| 全名 = <span style="font-size:75%;">フリードリヒ・アウグストゥス・アルベルト・マリア・クレメンス・ヨーゼフ・ヴィンツェンツ・アロイス・ネポムク・ヨハン・バプティスタ・ニコラウス・ラファエル・ペーター・クサヴァー・フランツ・デ・パウラ・ヴェナンティウス・フェリックス・フォン・ザクセン</span> |
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| 配偶者2 = [[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1805-1877)|マリア・アンナ・フォン・バイエルン]] |
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| 王室歌 = |
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'''フリードリヒ・アウグスト2世'''({{lang|de|Friedrich August II.}}, [[1797年]][[5月18日]] - [[1854年]][[8月9日]])は、[[ザクセン王国]]の第3代[[国王]](在位:[[1836年]] - [[1854年]])。ザクセン王太子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]](1759年 - 1838年)の長男で、初代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]、第2代ザクセン王[[アントン (ザクセン王)|アントン]]の甥。全名は''{{lang|de|Friedrich August Albert Maria Clemens Joseph Vincenz Aloys Nepomuk Johann Baptista Nikolaus Raphael Peter Xaver Franz de Paula Veneantius}}''。 |
'''フリードリヒ・アウグスト2世'''({{lang|de|Friedrich August II.}}, [[1797年]][[5月18日]] - [[1854年]][[8月9日]])は、[[ザクセン王国]]の第3代[[国王]](在位:[[1836年]] - [[1854年]])。ザクセン王太子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]](1759年 - 1838年)の長男で、初代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]、第2代ザクセン王[[アントン (ザクセン王)|アントン]]の甥。全名は''{{lang|de|Friedrich August Albert Maria Clemens Joseph Vincenz Aloys Nepomuk Johann Baptista Nikolaus Raphael Peter Xaver Franz de Paula Veneantius}}''。 |
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1830年9月、フランスで起きた[[7月革命]]の影響でザクセンに革命騒乱が発生した際、父マクシミリアンから王太子の地位を譲られた。[[1831年]]に伯父のザクセン王アントンによって[[摂政]]に任命され、アントンが[[1836年]]に死去すると王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世は憲法を制定するなど、はじめは自由主義的な姿勢をとったが、[[1848年革命]](3月革命)が勃発すると態度を変え、[[1848年]][[4月28日]]には議会を解散した。これは[[五月蜂起]]を招いたものの、暴動は速やかに鎮圧された。 |
1830年9月、フランスで起きた[[7月革命]]の影響でザクセンに革命騒乱が発生した際、父マクシミリアンから王太子の地位を譲られた。[[1831年]]に伯父のザクセン王アントンによって[[摂政]]に任命され、アントンが[[1836年]]に死去すると王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世は憲法を制定するなど、はじめは自由主義的な姿勢をとったが、[[1848年革命]](3月革命)が勃発すると態度を変え、[[1848年]][[4月28日]]には議会を解散した。これは[[五月蜂起]]を招いたものの、暴動は速やかに鎮圧された。 |
2010年7月24日 (土) 19:24時点における版
フリードリヒ・アウグスト2世 Friedrich August II | |
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ザクセン王 | |
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在位 | 1836年6月6日 - 1854年8月9日 |
全名 | フリードリヒ・アウグストゥス・アルベルト・マリア・クレメンス・ヨーゼフ・ヴィンツェンツ・アロイス・ネポムク・ヨハン・バプティスタ・ニコラウス・ラファエル・ペーター・クサヴァー・フランツ・デ・パウラ・ヴェナンティウス・フェリックス・フォン・ザクセン |
出生 |
1797年5月18日 ザクセン、ピルニッツ |
死去 |
1854年8月9日(57歳没) オーストリア帝国、カッレーステン |
埋葬 |
ドイツ、ザクセン州ドレスデン、カトリック宮廷教会 |
配偶者 | マリア・カロリーネ・フォン・エスターライヒ |
マリア・アンナ・フォン・バイエルン | |
家名 | ヴェッティン家アルブレヒト系 |
父親 | マクシミリアン・フォン・ザクセン |
母親 | カロリーネ・フォン・ブルボン=パルマ |
フリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II., 1797年5月18日 - 1854年8月9日)は、ザクセン王国の第3代国王(在位:1836年 - 1854年)。ザクセン王太子マクシミリアン(1759年 - 1838年)の長男で、初代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世、第2代ザクセン王アントンの甥。全名はFriedrich August Albert Maria Clemens Joseph Vincenz Aloys Nepomuk Johann Baptista Nikolaus Raphael Peter Xaver Franz de Paula Veneantius。
1797年5月18日にピルニッツで、ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの五男マクシミリアンとその最初の妻であったパルマ公フェルディナンドの娘カロリーナ・マリーア(1770年 - 1804年、独語名カロリーネ・マリア)の第三子として生まれた。
1819年9月26日にフリードリヒ・アウグストはオーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリー・カロリーネ(1801年 - 1832年)と結婚した。さらにカロリーネと死別した後の1833年4月24日にバイエルン王マクシミリアン1世の王女マリア・アンナと再婚した。しかし2人の妃との間に子供は生まれなかった。
1830年9月、フランスで起きた7月革命の影響でザクセンに革命騒乱が発生した際、父マクシミリアンから王太子の地位を譲られた。1831年に伯父のザクセン王アントンによって摂政に任命され、アントンが1836年に死去すると王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世は憲法を制定するなど、はじめは自由主義的な姿勢をとったが、1848年革命(3月革命)が勃発すると態度を変え、1848年4月28日には議会を解散した。これは五月蜂起を招いたものの、暴動は速やかに鎮圧された。
フリードリヒ・アウグスト2世は、馬車事故による怪我が原因で1854年8月9日にカッレーステン(ティロル州イムスト郡)で死去した。王位は弟のヨハンが嗣いだ。
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