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1207年、レシェクは[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ルーシ]]の周辺部を領する[[ルーツィク]]公[[イングヴァル・ヤロスラヴィチ (ルーツィク公)|イングヴァル]]の娘、[[グジミスワヴァ・ウツカ|グジミスワヴァ]]と結婚した。この結婚はポーランドの東方拡張政策の一環でもあった。夫妻はあいだに1男1女をもうけた。
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2009年10月24日 (土) 08:15時点における版

レシェク白公

レシェク1世ビャウィポーランド語:Leszek Biały, 1186年頃 - 1227年)は、クラクフ公(在位1194年 - 1198年、1199年、1206年 - 1210年、1211年 - 1227年)、サンドミェシュ公(在位1202/1206年 - 1227年)、マゾフシェ公(在位1194年 - 1200年)、クヤヴィ公(1199年 - 1200年)。綺麗な白髪を持っていたことから、白公(Biały)の異称がある。

生涯

レシェクは1194年から1227年にかけ、3度の廃位期間を除いてポーランド君主(大公)の地位にあった。レシェクの治世中、ミェシュコ3世およびヴワディスワフ3世が大公の座をめぐってレシェクと競合していた。

1198年から1211年までのレシェクの治世に関する史料は、君主の座をめぐる争いでレシェクが何度、いつの時期に廃位・復位したのかについて主張が分かれている。1210年の廃位はミェシュコ1世プロントノギが首位の公に擁立された騒動を中心として起きたものである。

レシェク白公は大公を務めるカジミェシュ2世正義公と、ボヘミアのズノイモ公コンラート2世の娘ヘレナとの間の息子として生まれ、父が死ぬとサンドミェシュ公国の相続権を得たうえ、大公の地位をも引き継いだ。1205年、レシェクは弟のマゾフシェ公コンラトとともに、マウォポルスカで起きたザヴィホストの戦いにおいて、ルテニアの英雄ロマン大公を撃破した。1207年には、教皇インノケンティウス3世の求めに応じ、ポーランドをローマ教皇の封土であると認めた。この事件は、中世ヨーロッパで長く続いていた教皇と神聖ローマ皇帝の権力争いにおいて、ポーランド国家が教皇派陣営に加わることを意味した。この後、レシェクはインノケンティウス3世による教会改革を推進していたグニェズノ大司教ヘンリク・キェトリチュと強固な同盟関係を築いた。

ゴンサヴァでの諸公会議、レシェク白公のほかに弟のマゾフシェ公コンラト、シロンスクのヘンリク1世髭公、ヴワディスワフ3世細足公などが描かれている

レシェクは東のハールィチ・ルーシ(ルテニア)をめぐってハンガリーと戦ったが、この地域に影響力を及ぼすことは出来なかった。そこでレシェクはハンガリーと共同でこの地域に進出することを決め、アンドラーシュ2世の息子カールマーンに自分の娘サロメアを嫁がせ、彼をハールィチの君主としたうえでハンガリー王の封臣とし、この主従関係を使ってポーランドとハンガリーの両者がこの地域を支配することにした。しかし亡きロマン大公の息子ダヌィーロが1214年にハールィチ(ガリツィア)における勢力を回復し、同地域を支配しようとしたポーランドと、カトリックの勢力を東方に拡大しようとしたローマ教会の狙いは、失敗に終わった。

1227年、レシェク白公はゴンサヴァで開催された諸公会議に出席した時に暗殺された。暗殺を命じたのは東ポモジェのグダニスク公シフィエントペウク2世だったと思われ、おそらくシフィエントペウクの義弟であるヴィエルコポルスカヴワディスワフ・オドニツが裏で糸を引いていた。この事件はレシェクがポモジェの公に自らの権威に服するよう求めたことが原因だったと言われている。

有名な逸話に、レシェク白公が教皇に対し、パレスチナには蜂蜜酒ビールも無いのでポーランドの騎士たちは十字軍には加われない、と十字軍参加の申し出を断ったというものがある。

子女

1207年、レシェクはハールィチ・ルーシの周辺部を領するルーツィクイングヴァルの娘、グジミスワヴァと結婚した。この結婚はポーランドの東方拡張政策の一環でもあった。夫妻はあいだに1男1女をもうけた。

  1. サロメア(1211/1212年 - 1268年) - アンドラーシュ2世の息子カールマーンと結婚、福者
  2. ボレスワフ5世(1226年 - 1279年)
先代
カジミェシュ2世
ポーランド大公
(1度目)

1194年–1198年
次代
ミェシュコ3世
先代
ミェシュコ3世
ポーランド大公
(2度目)

1199年
次代
ミェシュコ3世
先代
ヴワディスワフ3世
ポーランド大公
(3度目)

1206年–1210年
次代
ミェシュコ1世プロントノギ
先代
ミェシュコ1世プロントノギ
ポーランド大公
(4度目)

1211年–1227年
次代
ヴワディスワフ3世