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'''千葉 自胤'''(ちば よりたね、[[文安]]3年([[1446年]]) - [[明応]]2年([[1493年]]))は[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[室町幕府|幕府]]より認められた[[千葉氏]]当主。父は千葉氏嫡流の[[千葉胤賢]]。兄に[[千葉実胤|実胤]]。通称は二郎。[[養子]]に実胤の子とされる[[千葉守胤]]([[千葉盛胤|盛胤]])。
'''千葉 自胤'''(ちば よりたね、[[文安]]3年([[1446年]]) - [[明応]]2年([[1493年]]))は[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[室町幕府|幕府]]より認められた[[千葉氏]]当主。父は千葉氏嫡流の[[千葉胤賢]]。兄に[[千葉実胤|実胤]]。通称は二郎。[[養子]]に実胤の子とされる[[千葉守胤]]([[千葉盛胤|盛胤]])。
==生涯==
==生涯==
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[[享徳]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1455年]][[1月15日]])[[鎌倉公方]][[足利成氏]]が[[関東管領]][[上杉憲忠]]を[[暗]]したことから[[享徳の乱]]が起こり、成氏派の重臣[[原胤房]]に[[亥鼻#亥鼻(千葉)城について|千葉城]]を急襲され、千田庄(現在の[[多古町]])に逃れ援軍を待った[[千葉胤直]]・[[千葉胤宣|胤宣]]父子は、頼みの[[上杉氏]]の援軍が得られず籠った多古城と志摩城の落城により自刃して果てた。


しかし兄実胤と自胤は父胤賢に連れられ志摩城を脱出、父も[[康正]]元年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]](1455年[[10月17日]])[[坂田城#支城|小堤城]](現在の[[横芝光町]]小堤)で自刃して果てたが、自胤らは八幡庄市河城(現在の[[市川市]]市川)へと逃れた。そして[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]が派遣した[[奉公衆]][[東常縁]]の支援を得たが、[[古河公方]]足利成氏の派遣した[[簗田持助 (室町時代)|簗田持助]]に敗れ、康正2年([[1456年]])正月19日に市河城も陥落、自胤らはさらに[[武蔵国]]へと逃れた。
常縁は[[東庄町|東庄]]の近い[[下総国|下総]][[匝瑳郡]]へ逃れ体制を立て直し、2月7日に匝瑳郡の惣社[[老尾神社]]で戦勝祈願をした後[[馬加城]](現在の千葉市[[花見川区]]幕張町)を攻め落として、6月12日に[[馬加康胤]]の子[[馬加胤持|胤持]]を、11月1日には、[[上総国]]八幡(現在の[[市原市]]八幡)の[[村田川]]にまで逃れた馬加康胤を討ち取り、[[馬加氏]]を滅ぼした。


常縁は[[東庄町|東庄]]の近い[[下総国|下総]][[匝瑳郡]]へ逃れ体制を立て直し、2月7日に匝瑳郡の惣社[[老尾神社]]で戦勝祈願をした後[[馬加城]](現在の千葉市[[花見川区]]幕張町)を攻め落として、6月12日に[[馬加康胤]]の子[[馬加胤持|胤持]]を、11月1日には、[[上総国]]八幡(現在の[[市原市]]八幡)の[[村田川]]にまで逃れた馬加康胤を討ち取り、[[馬加氏]]を滅ぼした。
一方実胤と自胤は武蔵国に逃れ、兄実胤は石浜(現在の[[台東区]]橋場)城主、自胤は[[赤塚城|赤塚]] (現在の[[板橋区]]赤塚)城主となり、康正3年([[1457年]])4月には外戚である[[扇谷上杉家]]の家宰の[[太田道灌]]が[[江戸城]]を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的にはひっ迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。その後兄実胤が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総に於いては印東庄岩橋村(現在の[[酒々井町]]岩橋)の領主[[岩橋輔胤]]らは[[本佐倉城]]を築城するなど反抗を続け、その子[[千葉孝胤|孝胤]]は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた足利成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。


一方、実胤と自胤は武蔵国に逃れ、兄実胤は石浜(現在の[[台東区]]橋場)城主、自胤は[[赤塚城|赤塚]] (現在の[[板橋区]]赤塚)城主となり、康正3年([[1457年]])4月には外戚である[[扇谷上杉家]]の家宰の[[太田道灌]]が[[江戸城]]を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的にはひっ迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。
なお東常縁は、[[応仁の乱]]で所領である[[美濃国]]郡上を[[斎藤妙椿]]に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])4月に、子東縁数を下総に残して帰京している。


その後兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総に於いては印東庄岩橋村(現在の[[酒々井町]]岩橋)の領主[[千葉輔胤|岩橋輔胤]]らは[[本佐倉城]]を築城するなど反抗を続け、その子[[千葉孝胤|孝胤]]は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた足利成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。
その後自胤は、文明10年([[1478年]])12月、(この時既に孝胤は足利成氏からも離反しており、[[山内上杉家]]・扇谷上杉家・古河公方の合意もあって)太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には[[境根原合戦]]に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した[[臼井城]](現在の[[佐倉市]]臼井田)を、文明11年([[1479年]])7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。だが、この20年の間に輔胤・孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定される事となった。なおこの際、太田道灌の甥の[[太田資忠|太田図書助資忠]]が討ち死したといわれ「太田図書之墓」は佐倉市の文化財になっている

なお東常縁は、[[応仁の乱]]で所領である[[美濃国]]郡上を[[斎藤妙椿]]に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])4月に、子の[[東縁数]]を下総に残して帰京している。

その後自胤は、文明10年([[1478年]])12月、(この時既に孝胤は足利成氏からも離反しており、[[山内上杉家]]・扇谷上杉家・古河公方の合意もあって)太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には[[境根原合戦]]に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した[[臼井城]](現在の[[佐倉市]]臼井田)を、文明11年([[1479年]])7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。

だが、この20年の間に輔胤・孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定される事となった。

なおこの際、道灌の甥の[[太田資忠]]が討ち死したといわれ「太田図書之墓」は佐倉市の文化財になっている。


== 「南総里見八犬伝」 ==
== 「南総里見八犬伝」 ==

2009年9月29日 (火) 02:18時点における版

千葉 自胤(ちば よりたね、文安3年(1446年) - 明応2年(1493年))は室町時代中期の武将幕府より認められた千葉氏当主。父は千葉氏嫡流の千葉胤賢。兄に実胤。通称は二郎。養子に実胤の子とされる千葉守胤盛胤)。

生涯

享徳3年12月27日1455年1月15日鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠暗殺したことから享徳の乱が起こり、成氏派の重臣原胤房千葉城を急襲され、千田庄(現在の多古町)に逃れ援軍を待った千葉胤直胤宣父子は、頼みの上杉氏の援軍が得られず籠った多古城と志摩城の落城により自刃して果てた。

しかし兄実胤と自胤は父胤賢に連れられ志摩城を脱出、父も康正元年9月7日(1455年10月17日小堤城(現在の横芝光町小堤)で自刃して果てたが、自胤らは八幡庄市河城(現在の市川市市川)へと逃れた。そして将軍足利義政が派遣した奉公衆東常縁の支援を得たが、古河公方足利成氏の派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年)正月19日に市河城も陥落、自胤らはさらに武蔵国へと逃れた。

常縁は東庄の近い下総匝瑳郡へ逃れ体制を立て直し、2月7日に匝瑳郡の惣社老尾神社で戦勝祈願をした後馬加城(現在の千葉市花見川区幕張町)を攻め落として、6月12日に馬加康胤の子胤持を、11月1日には、上総国八幡(現在の市原市八幡)の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取り、馬加氏を滅ぼした。

一方、実胤と自胤は武蔵国に逃れ、兄実胤は石浜(現在の台東区橋場)城主、自胤は赤塚 (現在の板橋区赤塚)城主となり、康正3年(1457年)4月には外戚である扇谷上杉家の家宰の太田道灌江戸城を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的にはひっ迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。

その後兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総に於いては印東庄岩橋村(現在の酒々井町岩橋)の領主岩橋輔胤らは本佐倉城を築城するなど反抗を続け、その子孝胤は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた足利成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。

なお東常縁は、応仁の乱で所領である美濃国郡上を斎藤妙椿に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い文明元年(1469年)4月に、子の東縁数を下総に残して帰京している。

その後自胤は、文明10年(1478年)12月、(この時既に孝胤は足利成氏からも離反しており、山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方の合意もあって)太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には境根原合戦に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した臼井城(現在の佐倉市臼井田)を、文明11年(1479年)7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。

だが、この20年の間に輔胤・孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定される事となった。

なおこの際、道灌の甥の太田資忠が討ち死したといわれ「太田図書之墓」は佐倉市の文化財になっている。

「南総里見八犬伝」

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』には千葉介自胤として登場、家老の馬加大記常武が、父の仇として犬坂毛野に討たれる。その後自胤は、両上杉、古河公方と連合して国府台で里見軍と戦って敗れる。史実を変形したものである。

外部リンク