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ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の[[日本選手権競輪]]へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。
ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の[[日本選手権競輪]]へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。


すると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのような活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したということを述べている。
すると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのような活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べている。


したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。
したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。

2008年10月14日 (火) 23:41時点における版

紫原 政文(しはら まさふみ、1968年3月5日- )は、福岡県久留米市出身の競輪選手日本競輪選手会・福岡支部に在籍。

経歴

師匠は中野浩一福岡県立八女工業高等学校出身で、師匠の中野の後輩にあたる他、高校時代は中野と同じく、同校の陸上部に在籍していた。

日本競輪学校第61期生。同期には神山雄一郎山田裕仁らがいる。1988年5月3日京都向日町競輪場でデビューし2着。初勝利は翌5月4日

1990年競輪祭新人王戦で優勝。その後、息の長い活躍を続け、2008年現在、18年ほどに亘ってほぼ常時特別競輪(現在のGI)に出場。内、1996年競輪祭競輪王戦決勝3着。2008年のオールスター競輪一宮競輪場)決勝2着という実績がある。

また2008年10月13日現在、同年の賞金獲得ランキング第9位となっており、同ランキング上位18名が選出される、2009年のS級S班選手も間近に見えてきている。

エピソード

以下は、中野浩一著「競輪へ行こう」(ゴマブックス刊)を参考文献とした話である。

師匠の中野から見て、競輪学校の在校競走成績順位が低かった(全生徒98名中63位)ということもあり、競輪選手として、このままでは恐らく大成しないだろうと考えていたという。

ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の日本選手権競輪へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。

すると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのような活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べている。

したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。

関連項目

外部リンク