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最初の皇后[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア・アナ]]([[スペイン]]王女)との間に、3子が成人した。
最初の皇后[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア・アナ]]([[スペイン]]王女)との間に、3子が成人した。
*[[フェルディナント4世 (ローマ王)|フェルディナント]]
*[[フェルディナント4世 (ローマ王)|フェルディナント4世]](1633年 - 1654年) ローマ王、ハンガリー王、ボヘミア王
*[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ]]
*[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ]](1634年 - 1696年) スペイン王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]妃
*[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト]]
*[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]](1640年 - 1705年) 神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王


度目の皇后、オーストリア大公女[[マリア・レオポルディーネ・フォン・ティロル|マリア・レオポルディーネ]]との間には、1子が生まれ夭折した。
2度目の皇后[[マリア・レオポルディーネ・フォン・ティロル|マリア・レオポルディーネ]](オーストリア大公女)との間には、1子が生まれ夭折した。


度目の皇后[[エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ|エレオノーラ・ゴンザーガ]]と1651年に結婚。4子が生まれたが成人したのは2子。
3度目の皇后[[エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ]]と1651年に結婚。4子が生まれたが成人したのは2子。
*エレオノーレ・マリア・ヨーファ  最初は[[ポーランド]]王[[ミハウ (ポーランド王)|ミハウ]]妃。死別後、[[ロレーヌ]]公シャルル5世と再婚。
*エレオノーレ・マリア・ヨーファ(1653年 - 1697年) 最初はポーランド王[[ミハウ (ポーランド王)|ミハウ]]妃。死別後、[[ロレーヌ]]公シャルル5世と再婚。
*マリア・アンナ・ヨファ  [[プファルツ選帝侯]][[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]妃
*マリア・アンナ・ヨーゼファ(1654年 - 1689年) [[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]妃


==関連項目==
==関連項目==

2007年5月20日 (日) 16:48時点における版

フェルディナント3世
フェルディナント3世

フェルディナント3世1608年7月13日 - 1657年4月2日)は、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝(在位:1637年 - 1657年)、ハンガリー王(在位:1625年 - 1657年)、ボヘミア王(在位:1627年 - 1646年)。フェルディナント2世の子。

生涯

父の存命中からハンガリー王位、ボヘミア王位を継いで、父の治世を助けた。三十年戦争継続中の1634年、皇帝軍司令官ヴァレンシュタインが父によって暗殺された後を受けて、皇帝軍の指揮権を委ねられた。ヴァレンシュタインの死去を好機と見たスウェーデン軍が、大挙して侵攻して来たが、フェルディナント3世はこれをネルトリンゲンの戦いで破り、逆にその存在を知らしめたのである。1637年、父の死去により神聖ローマ皇帝として即位した。

しかしその後も三十年戦争が続いた結果、帝国内は戦争のために大いに荒廃してしまった。1645年には、ボヘミアへ侵攻したスウェーデン軍に皇帝軍が敗れると、ウィーンへ逃亡する失態を犯し(ボヘミアの王位は、翌1646年、息子のフェルディナント4世へ譲位する)、窮したフェルディナント3世は諸侯に休戦を主張するも相手にされなかった。それでも新旧両派の妥協により1648年ヴェストファーレン条約締結を受諾することで、ようやく三十年戦争を終結させる事が出来た。これは近代国家最初の国際条約であるが、これにより神聖ローマ皇帝はプロテスタント諸侯の特権を大幅に認可し、ドイツ諸侯の自立権、オランダネーデルラント連邦共和国)とスイスの独立を正式に認めてしまったため、事実上神聖ローマ帝国は滅亡してしまったに等しくなった。その上、戦勝国であるフランススウェーデンに帝国内の領土の領有を認めさせられていた。この条約は、いわゆる神聖ローマ帝国の死亡診断書だったのである。この三十年戦争後の欧州の体制をヴェストファーレン体制という。もっともハプスブルク家領は維持する事には成功した。唯一、失態を犯したボヘミアにおいてもプラハは陥落しなかった為、ハプスブルク家の王位は保たれた。

1657年、50歳で死去した。1654年に長男でハンガリーとボヘミアの王位を継承していたローマ王フェルディナント4世が死去していたため、皇位は翌1658年、その弟レオポルト1世が継いだ。

フェルディナント3世が締結した条約により、帝国の混乱は鎮まったが、その代償は計り知れないほど大きかった。彼の時代に神聖ローマ皇帝は形式的な存在となり、同時にハプスブルク家の弱体化も始まったのである。ハプスブルク家の建て直しは1683年第二次ウィーン包囲の後まで待たなくてはならず、本格的な再興はマリア・テレジアの登場によって始まることになる。

家族

最初の皇后マリア・アナスペイン王女)との間に、3子が成人した。

2度目の皇后マリア・レオポルディーネ(オーストリア大公女)との間には、1子が生まれ夭折した。

3度目の皇后エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガと1651年に結婚。4子が生まれたが成人したのは2子。

関連項目


先代
フェルディナント2世
神聖ローマ皇帝
1637 - 1657
次代
レオポルト1世
先代
フェルディナント2世
ハンガリー王
1625 - 1647
次代
フェルディナント4世
先代
フェルディナント2世
ボヘミア王
1627 - 1646
次代
フェルディナント4世