「橘家圓蔵」の版間の差分
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*[[橘家圓蔵 (2代目)|2代目橘家圓蔵]](?) 南生、三遊亭圓志、三遊亭圓坊を経て襲名。享年不明。 |
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*3代目橘家圓蔵 初代[[三遊亭圓朝]]の弟子であり、後の[[三遊一朝]]。 |
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*[[4代目橘家圓蔵]]([[1864年]] - [[1922年]][[2月8日]])は、北品川出身だった為品川の圓蔵と呼ばれた。[[1887年]]6月入門、[[1890年]]9月二ツ目、[[1897年]]10月真打。[[1905年]]には落語の発展のため初代[[三遊亭圓左]]、4代目[[橘家圓喬]]、初代[[三遊亭圓右]]、3代目[[柳家小さん]]らにより「落語研究会」が始められた。師匠は4代目三遊亭圓生。弟子に[[橘家圓三]](代数不明)、圓満、圓坊、圓十郎、源一馬、初代[[橘家蔵之助]]、入船亭扇蔵、橘家文三、三遊亭圓玉(4代目[[三遊亭圓生]]死後圓蔵門下へ)、5代目三遊亭圓生(後の5代目圓蔵)、6代目三遊亭圓生(後の6代目圓蔵)、5代目[[三遊亭圓窓]]。享年59。 |
*[[4代目橘家圓蔵]]([[1864年]] - [[1922年]][[2月8日]])は、北品川出身だった為品川の圓蔵と呼ばれた。[[1887年]]6月入門し'''さん生'''、[[1890年]]9月に二ツ目で4代目'''圓蔵'''襲名、[[1897年]]10月そのままで真打。[[1905年]]には落語の発展のため初代[[三遊亭圓左]]、4代目[[橘家圓喬]]、初代[[三遊亭圓右]]、3代目[[柳家小さん]]らにより「落語研究会」が始められた。師匠は4代目三遊亭圓生。弟子に[[橘家圓三]](代数不明)、圓満、圓坊、圓十郎、源一馬、初代[[橘家蔵之助]]、入船亭扇蔵、橘家文三、三遊亭圓玉(4代目[[三遊亭圓生]]死後圓蔵門下へ)、5代目三遊亭圓生(後の5代目圓蔵)、6代目三遊亭圓生(後の6代目圓蔵)、5代目[[三遊亭圓窓]]。享年59。 |
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*5代目橘家圓蔵 後の[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]。師匠は4代圓蔵 |
*5代目橘家圓蔵 後の[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]。師匠は4代圓蔵 |
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*6代目橘家圓蔵 後の[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]。師匠は同じく4代圓蔵。 |
*6代目橘家圓蔵 後の[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]。師匠は同じく4代圓蔵。 |
2007年2月19日 (月) 13:08時点における版
橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)は落語の名跡。三遊亭のサブ的な屋号であり「橘家」の止め名にあたり多くは三遊亭圓生する落語家の前名にあたる為、6代目までは三遊派の落語家によって受け継がれてきたのだが、6代目が6代目三遊亭圓生を襲名後、しばらく空位だった時に、8代目桂文楽と圓生の相談により、文楽の弟子であった4代目月の家圓鏡が7代目を襲名する事になり系統が変わった。当代は8代目。
- 初代立花屋圓蔵 初代三遊亭圓生の弟子であり、「立花屋」の屋号を名乗っていた。:後に2代目三遊亭圓生を襲名する。
- 2代目橘家圓蔵(?) 南生、三遊亭圓志、三遊亭圓坊を経て襲名。享年不明。
- 3代目橘家圓蔵 初代三遊亭圓朝の弟子であり、後の三遊一朝。
- 4代目橘家圓蔵(1864年 - 1922年2月8日)は、北品川出身だった為品川の圓蔵と呼ばれた。1887年6月入門しさん生、1890年9月に二ツ目で4代目圓蔵襲名、1897年10月そのままで真打。1905年には落語の発展のため初代三遊亭圓左、4代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さんらにより「落語研究会」が始められた。師匠は4代目三遊亭圓生。弟子に橘家圓三(代数不明)、圓満、圓坊、圓十郎、源一馬、初代橘家蔵之助、入船亭扇蔵、橘家文三、三遊亭圓玉(4代目三遊亭圓生死後圓蔵門下へ)、5代目三遊亭圓生(後の5代目圓蔵)、6代目三遊亭圓生(後の6代目圓蔵)、5代目三遊亭圓窓。享年59。
- 5代目橘家圓蔵 後の5代目三遊亭圓生。師匠は4代圓蔵
- 6代目橘家圓蔵 後の6代目三遊亭圓生。師匠は同じく4代圓蔵。
- 7代目橘家圓蔵(1902年 - 1980年5月11日) 本名 市原虎之助 文雀、4代目月の家圓鏡を経て襲名。享年78。
- 8代目橘家圓蔵 本名は大山 武雄。升蔵、5代目圓鏡を経て襲名。