片岡董
生誕 |
1894年4月12日 日本 兵庫県 |
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死没 | 1963年4月21日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1915年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12日[1][2] - 1963年(昭和38年)4月21日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。旅館業・片岡平八郎の四男として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][3]。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる[1][3][4]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][5]。
参謀本部付、参謀本部員を経て、1928年(昭和3年)3月、陸軍兵器本廠付となり、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で1931年(昭和6年)3月まで聴講した[6]。陸大教官、陸軍省軍務局付、参謀本部員、騎兵集団参謀、陸軍騎兵学校教官、軍務局付、第4師団参謀、留守第4師団参謀[5]などを歴任し、1938年(昭和13年)3月、騎兵大佐に昇進[1][5]。同年7月、第104師団参謀長に就任し日中戦争に出征[1][2][5]。近衛騎兵連隊長、近衛捜索連隊長などを歴任[1][5]。
1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に昇進し騎兵第3旅団長に就任、満州に駐屯した[1][2][5]。1943年(昭和18年)2月、第5軍参謀長となり、1944年(昭和19年)8月、第1師団長心得に就任[1][2][5]。翌月、南方に派遣された[2]。1944年(昭和19年)10月、陸軍中将に進級し第1師団長に親補された[1][2][5]。レイテ島の戦いにおいて苦闘を続けたが敗退[2]。終戦をセブ島で迎えた[2]。1946年(昭和21年)4月に復員した[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
逸話
[編集]- 実家は城崎温泉の旅館三木屋で、兄の片岡平八郎が社長を務めた。
- レイテ戦における退却の際、自ら軍刀を抜いて邪魔な木の枝を切る一方で、負傷した副官に対しては松葉杖を作り、寝ている時の用便の世話までしたことから、副官を感激させた。[要出典]
著書
[編集]- 『レイテ戦従軍記』非売品、1987年。