烏帯
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烏帯(ウタイ、? - 1152年)は、金の皇族。漢名は宗言。第2代皇帝の太宗呉乞買の孫で、虞王阿魯補(宗偉)の子。
経歴
[編集]熙宗の治世下で大理卿となる。同族の蕭王乙卒(秉徳)や熙宗の婿の唐括弁らと共謀し、迪古乃(海陵王)を擁立すべく熙宗を殺害した。この功績から、海陵王が即位すると平章政事となった。
天徳2年(1150年)、今度は熙宗殺しの同志であった乙卒と叔父の阿魯(宗本)を謀反の罪で誣告したため、乙卒と阿魯は海陵王によって処刑された。これにより右丞相に任ぜられると共に、乙卒の財産を私蔵し、また乙卒の娘を自分のものとしたという。その後、司空・左丞相・侍中と順調に出世したが、数カ月後に解任され、崇義軍節度使として左遷された。
妻の唐括定哥はかねてから海陵王と密通しており、天徳4年(1152年)7月に烏帯は、海陵王の命を受けた唐括定哥により暗殺された。
宗室
[編集]正妻
[編集]- 唐括定哥 - 海陵王と私通していた。烏帯の死後は宮中に入り、貴妃に冊立されている。
子女
[編集]- 兀答補
- 女子
孫
[編集]- 烏也阿補(瑭)
関連系図
[編集](追)昭祖 石魯(シル) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景祖 烏古廼(ウクナイ) | 烏骨出(ウクチュ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾者(ヘテェ) | (追)世祖 劾里鉢(ヘリンボ) | 劾孫(ヘスン) | (追)粛宗 頗剌淑(ポラシェ) | 阿離合懣 | (追)穆宗 盈歌(インコ) | 習不失 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
撒改(サガイ) | (追)康宗 烏雅束(ウヤス) | (1)太祖 阿骨打(アクダ) 完顔旻 | (2)太宗 呉乞買(ウキマイ) 完顔晟 | 斜也(シエ) 完顔杲 | 撻懶(ダラン) 完顔昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
粘没喝(ネメガ) 完顔宗翰 | 謀良虎 完顔宗雄 | (追)徳宗 斡本(オベン) 完顔宗幹 | 斡離不(オリブ) 完顔宗望 | (追)徽宗 繩果(ジェンガ) 完顔宗峻 | 斡啜(オジュ) 完顔宗弼 | (追)睿宗 訛里朶(オリド) 完顏宗輔 | 訛魯観(オルゴン) 完顔宗雋 | 蒲魯虎(ブルフ) 完顔宗磐 | 阿魯補 完顔宗偉 | 阿魯(アル) 完顔宗本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
設野馬 | (4)海陵王 迪古乃(テクナイ) 完顔亮 | (3)熙宗 合剌(ホラ) 完顔亶 | (5)世宗 烏禄(ウル) 完顔雍 | 烏帯(ウタイ) 完顔宗言 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乙卒 完顔秉徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金史の記述
[編集]『金史』(巻一百三十二 列伝第七十)
- 言本名烏帶,行臺左丞相阿魯補子也。熙宗時,累官大理卿。熙宗晩年喜怒不常,大臣往往危懼,右丞相秉德、左丞唐括辯謀廢立,烏帶即詣海陵啓之,遂與倶弑熙宗。海陵即位,烏帶為平章政事,封許國王,賜錢、絹、馬、牛、羊、鐵券,並如其黨。
- 烏帶妻唐括氏淫泆,舊與海陵通,又私其家奴閻乞兒,秉德嘗對熙宗斥其事,烏帶銜之未發也。時海陵多忌,會有疾,少間,烏帶遂誣奏「秉德有指斥語,曰:主上數日不視朝,若有不諱,誰當繼者。臣曰:主上有皇子。秉德曰:嬰兒豈能勝天下大任,必也葛王乎。」海陵以為實然,故出秉德,已而殺之,以秉德世襲猛安謀克授烏帶。進右丞相。烏帶與宗本有親,海陵以烏帶告秉德事,故宗本之禍烏帶獨免,遂以秉德千戸謀克及其子婦家産盡賜之。進司空、左丞相、兼侍中。
- 居數月,烏帶早朝,以日陰晦將雨,意海陵不視朝,先趨出朝,百官皆隨之去。已而海陵御殿,知烏帶率百官出朝,惡之,遂落司空,出為崇義軍節度使。後海陵思慕唐括容色,因其侍婢來候問起居,海陵許立為后,使殺烏帶。海陵詐為烏帶哀傷,使其子兀荅補佩金符乘驛赴喪,追封為王,仍詔有司送其靈車,賜絹三百為道途費。納唐括於宮中,封貴妃。兀答補襲猛安謀克。大定六年,以猛安謀克還撒改曾孫,以阿魯補謀克授兀答補,終同知大興尹。子瑭,本名烏也阿補,以曾祖阿魯補功,充筆硯祗候。