粘没喝

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粘没喝(ネメガ、太康5年(1079年) - 天会15年7月21日1137年8月9日))は、宗室。別名は粘罕、あるいは烏家奴。漢名は宗翰。初代皇帝の太祖阿骨打の伯父の高宗劾者の孫で、撒改の長男。従って、太祖阿骨打の従子にあたる。

経歴[編集]

従父の太祖の挙兵以来から従い、遠征に従軍して大いなる戦功を挙げた。

天会3年(1125年)、もう一人の従父の太宗呉乞買によって左副元帥に任命され、大同に潜伏していた遼の最後の天子の天祚帝を捕虜として、西京大同府を自らの基盤とした。

天会5年(1127年)、北宋の徽宗欽宗父子やその后妃・宗室・大臣たちを捕虜として、宋の財宝をまとめて、女真の故地である中国東北部に凱旋した。その際に、金軍によって連行された皇女・宮女たち、宋の貴人たちの女性の総数は数千人に及び、彼らは燕山で洗衣院に入れられて、売春を強要された[1]

数年後、南宋の要害である河南・山東を攻略して占領し、金の領土を拡大させると共に、本拠地の大同を中心として華北を統轄した。また、南宋に対して意欲的に交渉を行ない、かつて北宋の家臣であった進士出身の劉豫を傀儡皇帝として「斉」を建てさせた。やがて、太保・尚書令・領三省事に昇進し、晋王に封じられる。

天会13年(1135年)に太宗が没すると、族弟の斡本(宗幹)と共に族子の合剌(太祖の孫)を擁立して、太宗の子の蒲魯虎(宗磐)と族父の撻懶完顔盈歌の子)と対立した。

ところが斉の廃国の絡みで蒲魯虎・撻懶が失脚すると、斡本は大同で兵権を持っていた粘没喝が目障りとなり、熙宗に上奏して、粘没喝を太保・領三省事という皇帝側近の名誉職に就任させ、軍事権を奪った。そのため粘没喝は次第に憔悴し、天会15年(1137年)秋7月に不遇のままで59歳で病没した。後に熙宗から、功績として秦桓忠王諡号を贈られた。

なお、孫の蕭王乙卒(秉徳)は、1150年4月に、阿魯(宗本)と共に斡本の次男である海陵王に警戒され、謀反の誣告を受けて、共に処刑されている。

粘没喝の末裔は粘氏を称し、代に満洲八旗の身分を得て江南に移住し、現在も健在といわれる。

宗室[編集]

妻妾[編集]

子女[編集]

  • 秦王・真珠大王 設野馬
  • 宝山大王 斜保

[編集]

  • 蕭王 乙卒(秉徳)
  • 秦王 斜哥

脚注[編集]

  1. ^ 靖康稗史箋証』より。それによると、粘没喝自身も数十人の女性を得た、との記載がある。