河合逸治

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河合 逸治(かわい いつじ、1886年明治19年〉6月20日 - 1964年昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校名古屋高等商業学校および名城大学名古屋商科大学教授

略歴[編集]

静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館東京帝大英文科卒後、大正3年第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。

1933年には名古屋市昭和区名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。

1948年5月、田中壽一(のちの名城大学学長)に、創設前の名城大学へ幹部級の待遇で招聘される。河合はこの誘いを受けるとともに、大学創設準備にも積極的に関わり、交渉のため文部省にも足しげく通った。大学設立が成った後は、同学教授に就任する。授業には自作のガリ版のテキストを買わせたが、生徒によれば「アリが行列しているような細かい字」であったという。また、校歌の作詞も手がけている。1951年には第二教養部長の職に就いた。直後名城大で紛争が起きたことから職を辞し、設立間もない名古屋商科大学に移り死去まで教養部長を務めた。

長男河合斌人、次男河合邦人はともに河合塾を引き継いで成長させた。2020年に河合塾理事長に就任した河合英樹は曾孫にあたる[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ コロナでどうなる大学入試 オンライン活用に自信 中心はやはり対面授業 37歳の河合塾新理事長インタビュー朝日新聞EduA