河合斌人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

河合 斌人(かわい あやと、1918年大正7年) - 2005年平成17年)9月6日)は日本実業家教育者。元河合塾理事長、元山一證券副社長。1992年フランス教育功労章フランス語版(パルム・アカデミク・オフィシエ)受章。河合逸治の長男。

愛知県のローカル予備校に過ぎなかった河合塾を、弟の河合邦人と共に全国展開し、三大予備校の1つに育てた。

人物[編集]

静岡県生まれ。旧制愛知第一中学(現愛知県立旭丘高等学校)(59回)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月東京商科大学(現一橋大学)(井藤半彌ゼミナール)を繰り上げ卒業。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。高商及び大学では剣道部に所属。

1942年昭和17年)日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。同年短期現役士官として海軍に入隊。名古屋海軍監督官事務所主計中尉海軍省経理局、海軍主計大尉を経て、第二次世界大戦終戦に伴い1945年10月から再び日本興業銀行勤務となる。

1945年12月経済安定本部(現内閣府)産業資金課に出向。中山素平日本興業銀行復興金融部長の命を受け、連合国軍最高司令官総司令部の意向に反し石炭産業へ維持・保全投資分を超えた投資を行った。

1949年日本興業銀行融資第一部に復帰。1954年名古屋造船に出向し同社再建策を策定、1955年日本興業銀行外国部次長、1959年同行ロンドン事務所主席駐在員。

1964年、証券不況による経営危機にあった山一證券に経営再建のため日高輝らとともに送り込まれ、常務就任。同社専務、代表取締役副社長を歴任。

山一証券退職後、父親が創業した学校法人河合塾に入社。弟河合邦人と共に1979年の広島校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り三大予備校の1つに育てる。1982年理事長就任、後会長。学校法人河合塾学園理事長や河合文化教育研究所所長も兼務。2004年から札幌予備学院理事長兼務も、翌2005年肺炎で死去。享年87。増上寺光摂殿にて学枚法人河合塾及び学校法人河合塾学園の合同葬が行われ、葬儀委員長は大学同期の鵜澤昌和経営学者、元青山学院大学学長)が務めた。

参考文献[編集]

河合塾が東京進出を開始した時期の代々木ゼミナール、駿河台高等予備校(駿台予備学校)、河合塾の三大予備校をモデルとした予備校業界に関する経済小説。