有田正憲
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有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。
略歴
[編集]- 戦前期より南朝復古と翼賛運動に身を投じる。『南朝奉戴会』を立ち上げ、熊沢天皇を晩年まで一貫して支援し続けた。
- 1949年(昭和24年)2月27日 - 第2回都城市長選挙に初出馬、得票数1,113で最下位落選して以降[1]、『国民政治連合(国政連)』[2]、『緑風会』[3]などの政治団体を主宰し、選挙闘争を全国展開する。
- 安保闘争期には、行動右翼の代表格の1人であった清水亘(大日本独立青年党総裁)と合流し、『議会主義政治擁護国民同盟(議擁同)』を結成。
- 小田俊与(人道主義政治連盟)、深作清次郎(反ソ決死隊)、南俊夫(自称:世界連邦創始者)、杉本一夫、岸本力男(後の稲川会越路家一家三代目、全愛会議理事長)、福田進(防共挺身隊)、山陰探月、別城遺一ら右派常連候補を糾合し、国会浄化、暴力スト粉砕、日教組解体、邪教創価学会殲滅などの主張を叫んでは、革新勢力に対する減票工作のため、国政選挙などへの大量立候補を敢行した。
- 議擁同の活動停止後、1968年の第8回参議院議員通常選挙には全国区から、1974年の第10回参議院議員通常選挙には東京都選挙区から、各々単騎出馬。
- 1980年(昭和55年) - 自ら発起人となって各界から出資を募り、巣鴨拘置所の処刑台跡地(現:サンシャイン60脇の東池袋中央公園)に、『永久平和を願って』と記した極東国際軍事裁判のA級戦犯慰霊碑を建立したため[4]、近隣住民の組織『戦犯記念碑建設に反対する連絡会』が、管理者の豊島区長を相手取って違憲訴訟を提起し[5]、公費支出の正当性が最高裁まで争われた。
- 1986年(昭和61年) - 『老人福祉党』結党。同年の第14回参議院議員通常選挙に確認団体として比例代表区に有田以下、林隆造、前川逸男、吉川朝臣、花輪春造(治三)ら10名を擁立し、223,532票を獲得するが、全員落選した。その後、有田の組織・人脈は福田拓泉・撫子夫妻に引き継がれた。
- 1988年4月1日をもって、政治資金規正法第17条第2項(収支報告書の未提出)により、『有田正憲後援会』は政治活動のための寄附の支出または受領が認められない団体となった[6]。
関連項目
[編集]- 笹川良一 - 右翼勢の最大のパトロン。有田は秘書を名乗っていた
- 児玉誉士夫
- 藤原銀次郎 - 『戦争受刑者世話会』理事長として処刑台跡地保存を請願
- 賀屋興宣 - 処刑台跡地保存を閣議了承
- 藤田勇
- 吉田長蔵
- 清水亘
- 福田拓泉 - 事実上の後継者
- 兼松耕作 - 緑風会副会長を経て、重松九州男の『日本世直し党』に合流
- 深作清次郎
- 南俊夫
- 花輪春造(治三)
- 石川八郎
- 河野孔明(『新東方会』、『台湾守護会』など) - 同郷の右派政治運動家
- 西山廣喜(『昭和維新連盟』) - 同郷の右翼、フィクサー
- 今泉雲海 - 同郷の名簿屋、特殊株主、右派政治運動家(元自民党職員)
脚注
[編集]- ^ 第1-16回都城市長選挙(都城市選挙管理委員会)
- ^ 後に赤石貞治が『政治結社・日本国民政治連合』に改組、承継。
- ^ 参議院院内会派とは無関係
- ^ 碑文は当初『戦争裁判の遺跡』を予定していたが、各方面からの強い反対で上記の内容に落ち着いた。
- ^ 東京地方裁判所昭和55(行ウ)104判決
- ^ 『官報』第74号、大蔵省印刷局、1988年6月15日、号外、13面。
参考文献
[編集]- 『巣鴨プリズン13号鉄扉 裁かれた戦争犯罪』(上坂冬子、新潮文庫 1984年 ISBN 4101359016、PHP研究所 2004年 ISBN 4569632491)
- 『熊沢天皇の末裔を訪ねて』(岡田晃房、『天皇の伝説』 メディアワークス/主婦の友社 1997年 ISBN 4073072536 所収)
外部リンク
[編集]- 中日ニュース No.1067_1「立会演説会録画実況」(4m41s〜) - YouTube(中日映画社)――1974年の参院選・東京地方区における立会演説会の映像、有田正憲による16秒の演説を含む。