広津桃子

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広津 桃子(ひろつ ももこ 廣津桃子、1918年3月21日 - 1988年11月24日)は、日本の作家随筆家広津和郎の娘。

来歴[編集]

広津和郎と下宿屋の娘神山ふくの長女として生まれる。神山家は幕末御家人から町人になり、桃子の祖父の代には麴町の英国大使館近くで薪炭を商っていたが、永田町で下宿屋を始めた一家である[1]。生まれて間もなく両親は別居し、母のもとで育つ。日本女子大学国文科卒業後[2]、叔母の神山かねが経営する目黒区駒場町の下宿屋「西山寮」で母と暮らしながら、女学校で教鞭を取っていたが、1945年5月の空襲で西山寮が全焼する[3]。戦後、同人雑誌『文学行動』に「窓」を発表し、1952年より母、叔母とともに藤沢市鵠沼に暮らす[4]。父・和郎の秘書役を務め、1962年に父が真実の妻と呼んで連れ添った松沢はまを、1968年には父を見送り、その直後に父との和解を描いた『波の音』を発表して本格的な文筆活動に入り、1972年に身辺の人々の思い出を綴った『春の音』で田村俊子賞、1981年には網野菊の生涯を描いた『石蕗の花』で女流文学賞受賞[4]。1979年に母と死別して一人暮らしとなってから難病を患い、呼吸不全で亡くなった[4]。祖父広津柳浪から三代の作家といわれたが、作品は少ない。生涯独身であり、桃子の死をもって三代で途絶えた。桃子の没後、広津家三代の文学資料6500点は神奈川近代文学館の所有となった[4]

1998年に、NHK教育テレビの<ETV特集>で澤地久枝が案内役に『文士たちの時代 第一回 悲観もせず 楽観もせず~広津和郎の散文精神』が放映され、桃子も取り上げられた。

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 澤地久恵「遠い日近いひと」『諸君』第28巻、第4-6号
  2. ^ 広津桃子 ヒロツモモコ20世紀日本人名事典
  3. ^ 「戦中・戦後の私の学生生活(1)」柳屋良博、『日吉台地下壕保存の会会報』第71号、2004年7月16日
  4. ^ a b c d 『時代を拓いた女たち: かながわの131人』神奈川新聞社、2005, p208-209「広津桃子 もの書く家の最後の人」