平田吉胤
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平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月[1][2][3])- 1937年(昭和12年)2月25日[3])は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。
経歴
[編集]豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村[4](駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた[1][2][4]。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め[4]、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ[3][4][注 1]。1891年(明治24年)[4][注 2]下毛郡城井村[4](耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり[1][4]、1899年(明治32年)家督を相続した[2]。
家業の農業を営む[2]。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した[4]。その他、豊前銀行取締役となり[1][2]、1927年(昭和2年)から1935年(昭和10年)まで耶馬溪鉄道社長を務めた[2][4]。
また1900年(明治33年)城井村長に就任[3][4]。1902年(明治35年)から死去するまで村会議員に在任[4]。1907年(明治40年)から大分県会議員に3期在任し県会議長も務めた[4]。1925年(大正14年)貴族院多額納税者議員に互選され[4]、同年9月29日[5]から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した[3]。在任中は同成会に所属した[3]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。