富士信清

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富士 信清
時代 江戸時代
生誕 宝暦9年(1759年
死没 不詳
別名 通称:又市郎
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
氏族 富士氏
父母 父:富士信久 [1]
横地安則の娘[2]
富士信成、富士信乾 [1]
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富士 信清(ふじ のぶきよ)は、 江戸時代後期の旗本。関東の富士氏の一族。

出自[編集]

富士信清は、富士城主であった富士信忠の第二子で後に関東を知行地とした富士信重の系譜(信重-信成-信宗-信良-信久-信清-)にあたる[3]。従って、富士氏の庶流である。

略歴[編集]

寛政重修諸家譜』によると、寛政5年(1793年)12月に家督を継ぎ、寛政8年(1796年)11月に初めて徳川家斉に拝謁したという[1]。また家禄は家督を継いだ35歳のとき采地二百石廩米百俵であった。

江戸幕府旗本御家人の古文書調査をした際、信清は富士家に伝来していた古文書を書き上げ提出している。その富士信重への徳川家康知行宛行状の前文には「富士又市郎信重拝領、同又一郎信清書上、東照宮御朱印」とある[4]

文化8年(1811年)、大久保四丁町(現在の東京都新宿区余丁町)に所在する富士又市郎拝領屋敷140坪が、相対替により本所林町(現在の東京都墨田区)のうち250坪余へ屋敷替えしている[5]

文化9年(1812年)には武蔵国都筑郡久保村[注釈 1]のうち35石余も知行地としており、『新編武蔵風土記稿』に「文化9年西尾藤四郎に賜り、同年高三十五石餘、富士又市郎へ賜ふ」とある[7][8]

家督は子の信成が継いだ。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後の三保町で現在の横浜市緑区[6]

出典[編集]

  1. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第三百七十九
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千百十
  3. ^ 小川 2006, p. 225.
  4. ^ 記録御用所本 2001, p. 137.
  5. ^ 東京市史稿 1939, p. 288.
  6. ^ 横浜市市民局総務部住居表示課編『横浜の町名』172頁、1991年
  7. ^ 新編武蔵風土記稿 1934, p. 265.
  8. ^ 角川 1984, p. 1414.

参考文献[編集]

  • 「巻之八十八 都筑郡之八 領名未勘 久保村」『新編武蔵風土記稿第四巻』雄山閣大日本地誌大系四〉、1934年。NDLJP:1051349/137  。 
  • 東京市役所『東京市史稿市街篇第三十四』1939年。 
  • 『角川日本地名大辞典14 神奈川県』角川書店、1984年。ISBN 4-04-001140-6 
  • 神崎彰利・下山治久『記録御用所本古文書 近世旗本家伝文書集 下巻』東京堂出版、2001年。ISBN 4-490-20441-8 
  • 小川恭一『徳川幕府の昇進制度-寛政十年末 旗本昇進表-』岩田書院、2006年。ISBN 4-87294-443-7 

関連項目[編集]