コンテンツにスキップ

宝勝寺 (群馬県甘楽町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宝勝寺
所在地 群馬県甘楽郡甘楽町大字金井375-1
位置 北緯36度15分16.7秒 東経138度56分56.8秒 / 北緯36.254639度 東経138.949111度 / 36.254639; 138.949111座標: 北緯36度15分16.7秒 東経138度56分56.8秒 / 北緯36.254639度 東経138.949111度 / 36.254639; 138.949111
山号 歓喜山[1]
宗旨 真言宗
寺格 単立寺院
本尊 大日如来
創建年 弘長年間(1261年 - 1263年)[1]
開基 紀藤権守[1]
中興年 永正年間(1504年 - 1521年)[1]
中興 13世元祐[1]
文化財 「宝勝寺起立文書」[2][1]宝篋印塔応永8年(1401年)[1])など
法人番号 9070005003677 ウィキデータを編集
宝勝寺 (群馬県甘楽町)の位置(群馬県内)
宝勝寺 (群馬県甘楽町)
テンプレートを表示
地図
地図

宝勝寺(ほうしょうじ)は群馬県甘楽町にある仏教寺院。境内には鎌倉時代南北朝時代の石造遺物を有し、甘楽町の重要文化財に指定されている[3]

歴史

[編集]

創建

[編集]

文政年間(1818年 - 1831年)の史料などによれば、寺のルーツは弘長年間(1261年 - 1263年)に遡る。至徳元年(1384年)には、多野郡高崎市吉井町)奥平の奥平氏の勧請により、京都の仁和寺の僧、元隃を招聘した。このときに寺は鏑川右岸の奥平へ移り、「大導坊地蔵院悲願山宝勝寺」と号したという[1]

その後、寺は永正年間(1504年 - 1521年)に中興され、鏑川左岸の現在地(甘楽郡)へ移転した[1]。史料によれば、多野郡・甘楽郡一円に13の末寺を有していた[1]

江戸時代

[編集]

戦国時代に一帯を支配した小幡氏[注 1]や、戦国時代末期に一帯を授けられた奥平信昌徳川家康の娘婿)は宝勝寺を祈願所とした。江戸時代に甘楽郡小幡藩がおかれ、織田信長の孫にあたる織田信良が藩主となると、その後の歴代の織田氏藩主も宝勝寺を祈願所と定め、寺社領朱印地)6石を与えている[1]

江戸時代中期に織田氏が転封になり、奥平松平氏松平忠尚系)が小幡藩主になった。転封後2代目にあたる松平忠福は、寛政4年(1792年)に山号を「歓喜山」に改めた[1]文化11年(1814年)の伊能忠敬による測量にも「御朱印六石真言宗歓喜山宝勝寺 阿弥陀如来」と記録されている[1]

寺は歴代の小幡藩の重臣たちの菩提寺ともなっている[1]

近代以降

[編集]

1907年(明治40年)に真言宗の宝常院を併合した[5]

文化財

[編集]
鏑川と三途川の位置

境内には、寺を創建した紀藤権守の供養碑があり、その板碑には文永5年(1268年)の銘がある[1]応永8年(1401年)の銘が刻まれた宝篋印塔もある[1][注 2][3]

史料によると、延宝元年(1673年)に火災があり建物を焼失した。このときに寺宝類も被害を被ったという[1]

寺に伝わる「宝勝寺起立書(起立文書)」は、甘楽町の重要文化財に指定されている[2]。この文書は、小幡藩藩主の松平忠恵の要請により、32代住職である浄光が著したもので、本寺・末寺や附属施設の歴史をまとめた縁起書である[2][1]文政3年(1820年)に藩の寺社奉行に提出されており、その写しが現存する[2]

三途の川と姥子堂

[編集]

宝勝寺は下仁田街道(現在の国道254号)が鏑川の支流[注 3]を渡る地点の北側に位置している[1]。この支流は「三途川」という[8]。伝承では奈良時代の仏僧行基による命名というが、宝勝寺の住職によれば、鉄分を多く含有する川の水が赤く見えることからこの名があるのではないかという[8]

現在の宝勝寺境内は三途川に面している。三途川を下仁田街道が渡る橋のたもとには「姥子堂」とよばれる仏堂があり、奪衣婆が祀られている[注 4]。「宝勝寺起立書(起立文書)」は、もともと行基が奪衣婆の木像をつくって祀ったものだと伝える。しかし、像と姥子堂は江戸時代の火災で失われており、現存するものは江戸時代に再建されたものである[8]。この姥子堂は宝勝寺が管理しており、甘楽町の史跡に指定されている[8]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 小幡氏は古代の武蔵七党児玉氏または片山氏の末裔と伝わる。戦国期には山内上杉家の家臣として奮ったが、上杉憲政の時代に武田信玄北条氏康が進出して山内上杉家が衰退すると、小幡氏は上杉派、武田派、長野派などに分裂して争うようになった。小幡憲重は当初上杉派だったが、居城を長野派の同族に攻め落とされて落ち延び、武田家に仕えた[4]
  2. ^ 一帯は天引石と呼ばれる砂岩や秩父山系から産する緑泥片岩などを産し、古くから石材の産地だったことが知られている。甘楽町内の板碑のうち、銘板が判読できるものだけで48基が確認されており、なかでも「仁治の板碑」は高さ3メートル80センチ、幅96センチの大きさがあり、仁治3年(1242年)2月8日の銘がある。これは西毛地方では最古のもので、町の重要文化財に指定されている[6]
  3. ^ 鏑川一級河川利根川水系に属する。利根川が本流で、その支流烏川、その支流が鏑川である。さらに鏑川の支流が天引川、その支流に白倉川があり、三途川はその支流。利根川から数えると5次支川である[7]
  4. ^ 奪衣婆は、三途の川の渡し賃(冥銭)を持たない死者がやってくると、その衣服を剥ぎ取るとされている。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p270「宝勝寺」
  2. ^ a b c d 甘楽町役場公式HP,社会教育課 文化財保護係,甘楽町指定文化財,宝勝寺起立文書,2018年6月11日閲覧。
  3. ^ a b 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1192「金井」
  4. ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1190「小幡氏の興亡」
  5. ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p268-269「金井」
  6. ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1190「数多い石造遺物」
  7. ^ 産経ニュース,2016年10月1日付,,【北関東怪奇伝説】あの三途の川と死後の処遇を決める脱衣婆(だつえば)が群馬・甘楽町に実在した…ほとりの小屋では鬼の老婆がカッと目を見開き…(2ページ目),2018年6月11日閲覧。
  8. ^ a b c d 産経ニュース,2016年10月1日付,,【北関東怪奇伝説】あの三途の川と死後の処遇を決める脱衣婆(だつえば)が群馬・甘楽町に実在した…ほとりの小屋では鬼の老婆がカッと目を見開き…(1ページ目),2018年6月11日閲覧。

参考文献

[編集]