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上野長野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野長野氏
家紋
檜扇
本姓 在原姓業平流
物部姓石上氏?
種別 武家
出身地 上野国
主な根拠地 上野国
著名な人物 長野業正
凡例 / Category:日本の氏族

上野長野氏(こうづけながのし)は、戦国時代まで上野国中西部を勢力圏とした国衆群馬郡長野郷(現・群馬県高崎市周辺)を本拠とする。上野国中央部で最大の国衆として勢力を有したが、永禄年間に滅亡し、その系譜には未確定の点が多い[1]箕輪城の箕輪長野氏と厩橋城の厩橋長野氏の2つの大きな系統があり、ほかに鷹留城の室田(鷹留)長野氏も存在した。家紋は「関東幕注文」などに見えるように檜扇(ひおうぎ)であり、子孫は丸の中に五本骨扇を描くなど簡略化した紋を用いているが、戦国時代に使われたのは9枚の板を紐で綴じた檜扇の中央に日の丸を描いた紋である[2]菩提寺長純寺(箕輪長野氏)、長昌寺(厩橋長野氏)、橋林寺(厩橋長野氏)、長年寺(室田長野氏)。

出自

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『長野記』や宗長『東路の津登』などによれば本姓石上氏[3]。現在伝わる諸系図は上野太守阿保親王の子・在原業平を祖としているが、系図が伝えるような業平が上野国司となった事実は確認できないため、伝説の域を出ない[4]。上野国府の在庁官人には石上氏の人物が確認できることから、長野氏は中央から国衙勤務のために下向して土着した彼らの子孫とも考えられる[5][6]

在原業平の子孫を名乗った理由としては業平が大和国石上郷に在原寺を建立したことや、長野氏が「業」を通字としたことによるとも考えられるが、逆に業平を祖先としたために「業」を通字に採用した可能性も否定できない[7]

長野氏の呼称は、『和名類聚抄』に見える群馬郡長野郷(現在の高崎市浜川町周辺)の地に土着したことに由来するとみられ、「長年寺系図」などが伝える吾妻郡長野原館に住んだことに基づくというのは後世の創作とみられる[8]

歴史

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吾妻鏡』には「永(長)野刑部丞跡」という鎌倉幕府御家人が確認できる[9][10]。長野康業が長野堰を開鑿したとも伝えるが、「長年寺系図」以外には見えない名前である[11]

南北朝時代には長野郷は上野国守護山内上杉氏の領地となっており、長野氏の支配は認められない[12]室町時代に再び名前の現れる長野氏がそれ以前の長野氏と同じ氏族なのか、それとも上杉氏被官として入った別の氏族であるかは明らかでない[13]

嘉吉元年(1441年)の結城合戦の際、山内上杉氏に従う上州一揆の一員として長野周防守・同名宮内少輔・長野左馬助の名が見える(「結城戦場記」)[6][14][15]。厩橋長野氏はのちに宮内大輔官途名を称していることから、この長野宮内少輔を厩橋長野氏に繋がる系統の人物と推測する見解もある[16][17][15]

享徳の乱では長野氏は幕府・上杉方についた[18]文明3年(1471年)8月17日付足利義政御内書案に山内上杉氏被官・小幡実高とともに「長野左衛門尉」の名が見え、山内上杉氏の家臣の中で有力な存在だったとみられる[15]

続く長尾景春の乱では長尾景春方につき、山内上杉氏と敵対した[16][19]。『松陰私語』には、文明9年(1477年)5月8日武蔵針谷原で山内上杉軍と長尾景春が戦った際に景春方の上州一揆旗本・長野左衛門尉為兼が討死したことや、永正元年(1504年)の立河原の戦いで、上杉顕定方で参加した長野孫六郎房兼が戦死したことが記録される[20][6][21]。長野左衛門尉為兼は文明3年の長野左衛門尉と同一人物と考えられる[19][15]。ただし為兼・房兼は現存する系譜類に見えない[20]黒田基樹は「兼」の字を長野氏の通字である「業」の誤記・誤読として、正しくは為業・房業と解し、厩橋長野氏に結びつけている[21](後述)。

厩橋長野氏

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厩橋長野氏の居城、厩橋城

厩橋城(のちの前橋城)を築城し本拠としたのが厩橋長野氏である。『前橋風土記』は歴代厩橋城主を初代・固山宗賢、2代・道安、3代・道賢、4代・長尾賢忠としているが、長尾賢忠とあるのは長野賢忠の誤りであり[22]、順序も異なると考えられている。

厩橋城を築城した固山宗賢は橋林寺の開基とされており、戒名は栄興院殿固山宗賢大庵主で俗名は長野入道左衛門尉景信、延徳元年(1489年)3月15日没という[23][24]。『白井伝説』下には長尾弾正忠景入道宗賢庵主は文明9年(1477年)に石倉の新城へ移り、延徳元年7月8日に病死したとある[24]。これらでは氏や実名に混乱があるものの、黒田基樹は橋林寺が「方業」という実名を伝えているのを「為業」の誤写とみて、文明9年(1477年)に討死した長野左衛門尉為業が厩橋長野氏初代の固山宗賢であり、延徳元年はその後継者が十三回忌に菩提を弔うために橋林寺を開基した年と解している[24]

長野賢忠は永正3年(1506年)8月6日に橋林寺に「聖仲」の菩提のために寺領を寄進している[25][26]。聖仲は賢忠の先代でこの時点までに死去していたこととなるが、祝昌寺位牌に「当寺開基為聖仲志庵主、中興弾正顕業」とあることから今井善一郎は厩橋長野氏は宗賢、顕業、賢忠の順だったと推測している[27]。黒田基樹はさらに顕業の「顕」字を上杉房顕からの偏諱とみてその元服を康正元年(1455年)以降とし、永正元年(1504年)に戦死した孫六郎房業が仮名を称していることから顕業の庶子と解している[28]大永4年(1524年[注釈 1]に箕輪長野氏の長野左衛門大夫方業とともに総社長尾氏を攻撃している「厩橋宮内大輔」も賢忠であると考えられる[31]天文2年(1533年)2月9日の『快元僧都記』にも山内上杉家の有力被官として「長野宮内大輔」の名が見える[32]。賢忠の終見は「由良成繁事書案」に「厩橋賢忠」とあるもので、天文10年(1541年)秋に上杉乗賢成田親泰那波宗俊佐野助綱とともに金山城主・横瀬氏を攻撃している[32]。なお賢忠の没年を永禄6年(1561年)と伝えるのは誤りとみられる[33]

天文22年(1553年)12月29日に長野弾正入道道賢が「道安」の菩提のために橋林寺に寺領を寄進していることから、この時点で道安は死去しており、道賢が厩橋長野氏の家督を継いでいたとみられる[23][34]遊行上人29世光体『石苔』に「厩橋にて長野弾正少弼」と見えるのも同一人物とみられる(弘治3年(1557年)8月以前)[35]

永禄3年(1560年)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻すると、箕輪長野氏とともに厩橋長野氏も景虎に服属し、赤石城(伊勢崎城)攻めに加わった。しかし、『赤城神社年代記』同年12月14日条には「於赤石厩橋彦太郎・大胡左馬允生害」とあり、長野彦太郎が殺害されたことが見える[36][37][38]。これについては江戸時代寛文12年(1672年)の永野実平書状に詳しい記述があり、当時の厩橋城主は永(長)野信濃の伯父・玄忠で、息子・彦太郎と伯父・永(長)野を謙信に従わせて伊勢崎に派遣したものの、放馬による混乱がきっかけで上杉軍に二人は討たれてしまい、玄忠も病死し厩橋城には北条高広が入ることとなったという[39][37][40][38]

このとき景虎に従った関東諸将を書き上げた「関東幕注文」が存在し、厩橋衆として長野藤九郎と同彦七郎の名が見える[41]。「関東幕注文」の記述を彦太郎殺害後とみて藤九郎・彦七郎を彦太郎の遺族とみる説[37][40][42]と、これを彦太郎殺害前の状況を示すものとみて藤九郎を彦太郎と同一人物とみなす説[38]がある。前者では厩橋長野氏は弱体化しつつも存続したこととなるが、後者では彦太郎殺害によって厩橋長野氏は滅亡したこととなる。永禄5年(1562年)には北条高広が厩橋城主となっていることから、遅くともその時点までに厩橋長野氏は没落している[43]

大胡左馬允が彦九郎の伯父と同一人物とみられることや、「関東幕注文」にも厩橋衆に大期(胡)氏が含まれていることから厩橋長野氏は大胡もその勢力下に収めたと考えられている。大胡氏と長野氏の関係については、長野氏出身の左馬允が大胡氏の家督を継承して大胡氏を一族化したという見方[39][43]と、大胡氏を追い払ったことで大胡郷を長野氏が支配することとなったという見方[44]が存在する。後者の根拠としては、北条氏康の招きで大胡郷を退去した大胡重行の子孫を牛込氏が称しており、大永6年(1526年)に牛込助五郎が北条氏から朱印状を与えられていることが挙げられる[45]

箕輪長野氏

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前述のように長野氏は南北朝時代以降長野郷を支配しておらず、応永10年(1403年)に上杉憲定が「長野郷内柴村半分」を、応永23年(1426年)に上杉憲基が「長野郷内簸(箕)輪本郷賀島左衛門太郎跡」を明月院に寄進しているように長野郷は山内上杉氏が支配下に置いていた[12]。長野氏は文明年間の長尾景春の乱で山内上杉氏と対立するが、近藤義雄はそれ以前の応永年間に長野乙業がすでに長野郷の浜川に居住していたと解しており[46]、久保田順一は文明年間後半に長野氏が山内上杉氏に復帰した際に浜川に入部したとしている[47]

箕輪長野氏の居城、箕輪城

当初は浜川を拠点とした長野氏だったが、長野業尚が鷹留城を築城して室田へ、さらにその子憲業箕輪城を築城して拠点を箕輪に移した。憲業の息子または甥の業氏が鷹留城主、業氏の弟の信濃守(業政/業正)が箕輪城主となり、両者の家系はそれぞれ室田(鷹留)長野氏と箕輪長野氏となったとされる。

業尚は、文亀元年(1501年)に曇英恵応を開山として曹洞宗長年寺(高崎市)を建立した人物である[48][16][49][注釈 2]。系図には「尚業」とするものもあるが、「長年寺開堂之仏事」(『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』)に「信州太守長野業尚」とあることから官途名は信濃守、実名は業尚である[50][51]。同書には業尚が祖父の養育を受けたこと、嫡子が「憲業左金吾」すなわち左衛門(大夫?)憲業、庶子が「金刺明尚諏訪」すなわち松井田諏訪氏を継いだ諏訪明尚、母が「松畝正貞」であることが見える[50]。また「松畝法語」により業尚の法名は宗樹であったことが分かる[50]。業尚が箕輪城を築城したと伝える系図と、業尚が鷹留城を、憲業が箕輪城を築いたと伝える系図の両方があるが、業尚が建立した長年寺は室田に所在することから業尚は室田を本拠とし鷹留城を築いたと考えられている[52]。系図では業尚は文亀3年(1503年)2月20日に死去したとされている[53][51]。また明応5年(1496年)3月7日に戸榛名神社(高崎市神戸町)に安堵した「長野伊予」も業尚とみられるが、文書は写しのため検討の余地も残されている[54]

長野憲業花押

憲業は永正9年(1512年)10月に長年寺に壁書を発しており[16][49]、「前伊予守」を称している[16][42][26]。系図では同年に箕輪城を築城している[55]。永正8年から9年(1511年-1512年)の足利政氏上杉顕実上杉憲房足利高基の抗争(永正の乱)の際憲房方についた長野伊予守が憲業と考えられている[26][56]。永正10年(1513年)4月に巌殿寺大戸城の陥落を祈願する寄進状を遺している[57][58][54]。憲業はその後大戸城方面に出兵した際か、永正11年(1514年)11月7日に吾妻郡で戦死したことを系図が伝えている[59][54]。系図によっては憲業の弟として信業を挙げるものもあるが、長年寺記録では憲業は上杉憲総(房)の偏諱を受けて信業から改名したのだと伝えている[60][61]。信業は寺伝では明応6年(1497年)長野郷内下芝の地に長純寺を開基した人物とされ、永正11年(1514年)に箕輪城を築いたともされている[62]

某花押(永正11年)
某花押(大永2年)

同永正11年4月1日に榛名神社に制札が発せられており、「上杉憲房制札」との押紙があるものの花押が異なるため、実際には箕輪長野氏の憲業の後継者、業氏によるものとみられる[63][64]。また大永2年(1522年)に仁叟寺に宛てられた制札にも類似した花押が見えるため、同一人物によるものとも考えられる[65]。系図には業氏の父については憲業とするものとその弟・信業とするものの両方があり[66][67]、前述のように両者を同一人物とする史料もある。系図では業氏の没年は天文7年(1538年)とされる[68][64]。鷹留城主の地位はその息子・業通が受け継いだとされている[64]

長野方業花押

続いて史料に現れるのが方業であり、系図では憲業の弟とされている[69][30]。方業は厩橋長野氏の固山宗賢の実名とも伝えられるため、両者を同一人物とみる説もあったが、固山宗賢は延徳元年(1489年)に死去しているため、父・業尚や兄・憲業の没年に比べて早すぎるとの指摘もされていた[69]。方業は大永4年(1524年)[注釈 1]11月17日に徳雲軒性福という人物に宛てて発した書状が残されており(「上杉家文書」)[30]、一連の書状から箕輪城主であり左衛門大夫の官途名を称し、厩橋長野氏の長野宮内大輔(賢忠)とともに総社長尾氏を攻撃していることが分かる[31]。従来この史料に見える実名は「方斎」と読まれており、近藤義雄は方斎と固山宗賢(=方業)を別人と説明した[70]。しかし、山田邦明によって方斎ではなく方業と判読されたため[71]、黒田基樹は前述のように固山宗賢の実名を方業ではなく為業と解する説をとっている。系図では憲業の弟とされる方業だが、前述のように尚業の子としては憲業・諏訪明尚のみが確認できることから黒田基樹は系図に疑問を示し、前述永野実平書状に玄忠が信濃守の伯父であるとの記述があることから方業を賢忠の弟で厩橋長野氏から養子となって箕輪長野氏当主となったという説を提示している[72]

某花押(天文4年)

方業の次に箕輪城主となったのが信濃守(業政/業正)であり、弘治3年(1557年)8月以前に長野信濃守を名乗っていたことが確認できるものの(『石苔』)実名は確定していない[35]。以下では便宜上業政と記述する。天文4年(1535年)4月に榛名神社に出された制札が従来業政によるものとされている[16][32]。しかし同文書の花押は方業と類似しているため、これも方業が発したものであるのか単に後継者の業政が方業と似た花押を採用したのかは確定していない[73]。久保田順一は方業と業政は同一人物である可能性が高いとしている[73]。他方黒田基樹はこの文書を方業のものであるとみて、天文4年時点でも方業が存命であり、それより後にその嫡子である業政が跡を継いだと解している[74]

長野業政木像(長純寺蔵)

享禄2年(1529年)に山内上杉家内で憲寛憲政の抗争(関東享禄の内乱)となった際、長野氏は憲寛方につき、安中氏攻撃を進める憲寛が憲政方の攻撃を受けて箕輪領程田(保渡田)に退いた際はこれに従っている(『続本朝通鑑』)[32][75]。この内乱は享禄4年(1531年)に憲政が勝利し憲寛が上野国を退去することで終息するが、憲寛を支持した箕輪長野氏は小幡氏など憲政派だった国衆と婚姻関係を結ぶことで関係修復に努めたと考えられる[76]

その後は上杉憲政に従ったと考えられ、天文14年(1545年)から翌年にかけての河越城の戦いにも参陣したものとみられるが活動の記録はなく、憲政の嫡子・吉業が手傷を負い箕輪に戻ってから死去したと系図が伝えるのみである[注釈 3][77]。天文21年(1552年)に北条氏康が上野国に侵攻し、憲政が越後国に逃れると、北条氏は上野の領国化を進め、長野氏の動向は史料に見えないが北条氏に従属したものとみられる[78]

業政は弘治3年(1557年)に長純寺を現在の高崎市箕郷町富岡に移転したとされる[79][80]。このときの再建奉加帳には、箕輪長野氏一族とみられる出羽守・左衛門尉・左京亮、厩橋長野氏とみられる彦七郎の人名が見える[81][35]

永禄3年(1560年)に越後の長尾景虎が関東に侵攻すると厩橋長野氏とともにこれに従った[82]。赤石に到着した順番に記述されているとみられる「関東幕注文」では白井衆・惣社衆に続いて箕輪衆が見え、憲政・謙信を支援する勢力の中核だったと考えられる[83]。箕輪衆筆頭「長野」は業政、次の「新五郎」はその嫡子とみられる[41][84]

長野氏業花押

業政は永禄4年(1561年)に死去し、息子・氏業が跡を継いだ[85][86]。「氏」の字は北条氏から偏諱を受けたものと考えられるためその元服は永禄3年(1560年)以前となる[87][88]。氏業は「関東幕注文」に見える新五郎だと考えられているが、当主となった後の永禄7年(1564年)には左衛門大夫の受領名を称している(「富岡家古文書」)[41]。業政が死去した永禄4年(1561年)、武田信玄西上野侵攻が本格化する[89]

永禄5年(1562年)武田氏に従属した海野中務少輔によって室田で長野三河入道らが討ち取られており(「浦野文書」)[85][90]、これは鷹留城の落城を指すものと考えられる[89]。三河入道は業政の兄・業氏[68]またはその子・業通[89]に比定されている。加えて和田業繁安中重繁といった国衆が武田氏の軍門に降り、倉賀野尚行倉賀野城から逃走したことで箕輪城は孤立状態となった[91]

永禄6年(1563年)12月には武田信玄による箕輪攻めに際して長純寺をはじめとする城外が焼き払われているが、このときは落城を免れた[85]。しかし永禄9年(1566年)に箕輪城は落城[92][93][94]。氏業とその弟・新六郎は討ち死にし、箕輪長野氏は滅亡した[95]。武田氏側の感状などの史料は残されておらず、攻防戦と氏業の自害について述べるのは『箕輪軍記』のみだが、同書は落城の年を永禄6年と誤っている[96]

箕輪落城後の長野一族

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長野氏業の子・亀寿は落城時に家臣の藤井孫蔵忠安・青柳弥左衛門清勝によって脱出し、本山派修験・極楽院にかくまわれて鎮良を名乗り、現在の高崎市箕郷町和田山の長野家はその子孫であるという[97]。また別の長野系図によれば氏業には業忠という子があり、浜川の善長院を建立したという[98]

鷹留長野氏では、業通の次男・業茂が落城後に仏門に入り、珠山玄宝となって和田山長純寺住職、のち井伊氏に従い移住して彦根長純寺を開いたと伝わる(大雲寺記)[99]。また業氏の次男・業亮は、長野氏が健在の頃から、大森神社の別当として大森別当と称され、落城後は曇廊と称し大雲寺住職となり、さらに井伊氏の移動に従って佐和山大雲寺を開いた[100]

彦根宗安寺の開山・成誉典応も鷹留長野氏の出身で、天保9年(1838年)の「和田城下大雲寺寺歴書」では曇廊和尚(業亮)の出家前の子で俗名・業連、「宗安寺記」では珠山玄宝の子とされている[101]

また彦根藩井伊家の記録によると、次席家老の長野民部は長野一族だという。家伝では業正の子・業親の子が伝蔵(業実、業真)といい、武田氏の滅亡後、生母が井伊直政と知己だったことから井伊氏に仕えて4000石を得たとされる[102]。『新編高崎市史 通史編2』は、業親が長野氏の系図にみえないため、業政の庶子か養子ではないかとする[102]。一方、徳川家が長野業正の子孫を探した時、長野氏関係の寺院が連署で天保9年(1838年)に提出した報告によると、民部は珠山玄宝の出家前にもうけた次男・業源のことだとされている[103]

系譜

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長野稔所蔵系図[104]

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乙業
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尚業
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業吉女子2人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲業信業女子方業氏業女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
亀寿業氏
 
 
 
 
 
 
業政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直業女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業通女子3人業固大歳別当吉業女子10人業盛女子2人勝業新七郎新八郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業康吉龍喜三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
亀寿

長年寺所蔵系図[104]

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業尚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲業方業
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
業通女子3人大森別当業固勝業女子2人吉業氏業女子12人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
右近葉連広賢業康業吉業茂業治業胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉川忠俊女子
 
 
 
女子女子(下略)(下略)女子

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ a b 旧来大永7年(1527年)に比定されることの多かった史料だが黒田基樹が大永4年との見解を示し[29]、久保田順一も大永4年としている[30]
  2. ^ 『日本洞上聯燈録』による。「長年寺縁起幷由来記」では明応元年(1492年)[42]
  3. ^ 河越城の戦いとは無関係に天文21年(1552年)に死去したとする系図もある。

出典

[編集]
  1. ^ 黒田 2013, p. 219.
  2. ^ 近藤 1985, pp. 18–23.
  3. ^ 近藤 1985, pp. 13–14.
  4. ^ 近藤 1985, pp. 10–12.
  5. ^ 近藤 1985, pp. 14–18.
  6. ^ a b c 峰岸 1999, p. 2.
  7. ^ 近藤 1985, p. 14.
  8. ^ 近藤 1985, pp. 23–25.
  9. ^ 久保田 2006, pp. 163, 183.
  10. ^ 久保田 2016, p. 12.
  11. ^ 近藤 1985, pp. 26–27.
  12. ^ a b 久保田 2006, p. 174.
  13. ^ 久保田 2016, pp. 12–13.
  14. ^ 高崎市史編さん委員会 2000, pp. 192–194.
  15. ^ a b c d 黒田 2013, p. 220.
  16. ^ a b c d e f 高崎市史編さん委員会 2000, pp. 208–210.
  17. ^ 久保田 2006, p. 169.
  18. ^ 久保田 2006, p. 164.
  19. ^ a b 久保田 2006, p. 165.
  20. ^ a b 近藤 1985, pp. 62–63.
  21. ^ a b 黒田 2013, pp. 220–222.
  22. ^ 近藤 1985, p. 78.
  23. ^ a b 今井 1965, p. 23.
  24. ^ a b c 黒田 2013, p. 228.
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参考文献

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関連文献

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  • 久保田順一『上野武士団の中世史』みやま文庫〈みやま文庫 141〉、1996年9月。 NCID BN15491932 
  • 久保田順一 著「長野方業」、戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年1月。ISBN 4642013482 
  • 黒田基樹 著「足利長尾氏に関する基礎的考察」、荒川善夫; 佐藤博信; 松本一夫 編『中世下野の権力と社会』岩田書院〈中世東国論 3〉、2009年5月。ISBN 9784872945614 
  • 黒田基樹(著)、早稲田大学教育学部社会科日本史攷究会(編)「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』第35号、早稲田大学教育学部社会科日本史攷究会、2011年、ISSN 1883325X 
  • 群馬県教育委員会事務局文化財保護課 編『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会、1989年3月。 NCID BN06891113 
  • 群馬県史編さん委員会編『群馬県史』 資料編7 (中世 3 編年史料 2)、群馬県、1986年3月。全国書誌番号:86039375 
  • 群馬県史編さん委員会編『群馬県史』 通史編3、群馬県、1989年12月。全国書誌番号:90017495 
  • 木暮英夫『西上州の古文書から日本歴史を考える』ニシ工芸、2002年12月。 NCID BB02482275 
  • 平井聖ほか編修『日本城郭大系』 第4巻 茨城・栃木・群馬、児玉幸多坪井清足監修、新人物往来社、1979年11月。全国書誌番号:80000234 
  • 前橋市史編さん委員会 編『前橋市史』 第1、前橋市、1971年。 NCID BN01313073 
  • 箕郷町誌編纂委員会 編『箕郷町誌』箕郷町教育委員会、1975年8月。 NCID BN12548920 

関連項目

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