婁昭

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婁 昭(ろう しょう、生没年不詳)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人政治家は菩薩。本貫代郡平城県[1][2][3]

経歴[編集]

鮮卑婁内干の子として生まれた。高歓の妻の婁昭君(武明婁皇后)の同母弟にあたる。若い頃から高歓と親しく、重用された[1][2][3]

普泰元年(531年)6月、高歓が信都で起兵するのに従い、中軍大都督となった。10月、爾朱兆を広阿で撃破し、安喜県伯に封じられた[4][2][5]太昌元年(532年)9月、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた[6]。済北公に進み、濮陽郡公に徙封され、領軍将軍に任じられた。北魏孝武帝が高歓に対して異心を抱いていることを知ると、婁昭は病と称して晋陽に帰還した。高歓に従って洛陽に入り、兗州刺史樊子鵠が叛くと、婁昭は東道大都督となって討伐にあたった。樊子鵠が死ぬと、諸将は婁昭に樊子鵠の残党を捕らえて処断することを勧めたが、婁昭は「その賊に怨みはあっても、その人に何の罪あらん」と言って捨て置いた[4][2][7]興和4年(542年)4月、大司馬に転じ[8][9]、軍を領した。武定2年(544年)11月、司徒に転じ[10][11]定州刺史として出向した。婁昭は酒を好んで晩年は痛風に苦しみ、激務に耐えられず、州の事務は属僚に委ねて、行政の大枠を定めるのみだった。定州で死去した。仮黄鉞・太師太尉の位を追贈され、を武といった。北斉が建てられた後、太原王に追封された[4][2][7]

子に婁仲達・婁定遠・婁季略がおり、長子の仲達が後を嗣いで濮陽王となった[12][13][7]

脚注[編集]

  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 191.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 196.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 1954.
  4. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 192.
  5. ^ 北史 1974, pp. 1954–1955.
  6. ^ 魏書 1974, pp. 285–286.
  7. ^ a b c 北史 1974, p. 1955.
  8. ^ 魏書 1974, p. 305.
  9. ^ 北史 1974, p. 190.
  10. ^ 魏書 1974, p. 307.
  11. ^ 北史 1974, p. 192.
  12. ^ 氣賀澤 2021, pp. 192–193.
  13. ^ 北斉書 1972, pp. 196–197.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3