大戸藩

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大戸藩(おおどはん)は、上野国吾妻郡大戸村(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)を領地として、徳川家康の関東入部時から大坂の陣まで存在したとされる。ただし藩主とされる岡成之の系譜や事績も含めて実態がはっきりせず、藩の存在に懐疑的な見解もある。

藩史[編集]

関連地図。緑は上野国内の信州街道の経由地を示す[1]。大戸のほか、狩宿と大笹にも関所が置かれた[2]豊岡(江戸時代初期)・上里見(江戸時代中期)・三ノ倉(関東入部後)[注釈 1]には、それぞれ短期間ながら大名が配置されたことがある。

伝えられる事項[編集]

天正18年(1590年)、岡成之[3][4][5](岡成定[6][7])が大戸において1万石を与えられて成立したとされる[7][3][4][5]。しかし慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣中、岡成之は大坂城内と連絡(通牒)をおこなったため[3]、成之は息子と共に京都妙顕寺に幽閉され、次いで自刃させられた[3]。このことをもって大戸藩は廃藩となった[3][6]

さまざまな説明[編集]

清田黙『徳川加封録・徳川除封録』(『加除封録』。1891年)によれば、岡越前守成定は大坂城中との通牒の廉により元和元年(1615年)7月27日に除封され、父子ともに京都の妙顕寺で自刃させられたという[6]

『群馬県史』(1917年)によれば、岡成之の家系等は不明であるが[3]、越前守に叙せられたという[3]

角川日本地名大辞典』は「大戸村」の項目で『吾妻郡城塁史』の記述を引き、岡氏は豊臣秀吉の命によって当地に入封したものとする[8]

『藩と城下町の事典』は「大戸藩」の項目において、徳川家康の関東入部に伴い岡成之が大戸で1万石を知行して陣屋を構えて立藩し、その子の家俊が大坂城内と通牒したため、父子共に妙顕寺に幽閉されて自刃し、廃藩になったと説明する[9]

『群馬県吾妻郡誌』(1929年)によれば、『大戸村誌』などに岡氏の記載はなく[10] 、大戸村は三ノ倉藩(大給松平近正5500石)領のはずであるとしている[11]

『角川日本地名大辞典』は大戸藩について「居所や藩領域が不明のため、藩の存立自体に疑問がある」としている[7][注釈 2]

日本歴史地名大系 群馬県の地名』では「大戸村」の項目に大戸藩に関する言及がない。

領地とされる土地[編集]

大戸[編集]

大戸は、鳥居峠を越えて上野国と信濃国を結ぶ交通路(信州街道、草津街道、大戸通りなどと呼ばれる道[8][14])の要地である[15]戦国期には浦野氏が当地を治め[16]大戸平城に拠った。群馬県教育委員会編纂の『歴史の道調査報告書 信州街道』は大戸藩が所在したとする見解を採り、大戸宿は中世からの城下町であったと記している[5]

江戸時代、信州街道は中山道脇往還に位置づけられ、宿場(大戸宿)が置かれた[8]。大戸宿は、飯山藩須坂藩松代藩の城米や、北信と吾妻郡を結ぶ物資や旅客(善光寺への参詣客や草津への湯治客など)の往来で賑わい[8]、上州屈指の豪商である加部安左衛門[注釈 3]を生んでいる[8]。また、信州街道を固める大戸関所が置かれた[8][注釈 4]

備考[編集]

「岡越前守」について[編集]

寛政重修諸家譜』には、大坂の陣に関連して切腹させられた「岡越前守」として、宇喜多秀家の旧臣であった岡家俊の記載がある[19]。岡家俊の知行地については記載がなく、慶長5年(1600年)に徳川家に仕えたという記述も関東入封時に成立したという「大戸藩」とも齟齬するが、参考として付す。

江戸幕府の奥医師を務めた岡家(家俊の子孫の岡寿元(甫庵)が医術をもって幕府に仕えた)からの呈譜によれば、祖先の越前守某(はじめ九郎右衛門)は、慶長5年(1600年)に浮田左京亮戸川達安花房正成らとともに宇喜多家を去ったが、のちに徳川家に召し出されて6000石を与えられた[19]。越前守の長男である平内は父から勘当され、「外戚」であった明石全登を頼ってその麾下となり、大坂の陣では大坂方で戦った[19]。元和元年(1615年)の大坂落城後、岡平内は江戸で切腹させられ、これに連座した越前守も7月6日に京都妙顕寺において切腹したとある[19]

宇喜多秀家の重臣「岡越前守」(確実な史料では実名不明)が、家中騒動により宇喜多家を離れたことについては、宇喜多家についての研究でも跡付けられる。関ヶ原の戦いののち6000石の知行を与えられているが、知行地は備中国川上郡のうち(成羽地域[20])である[21]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 徳川家康の関東入部後、大給松平近正が5500石で入った。
  2. ^ 江戸時代初期以前の「藩」については、居所や藩領域に関する記録が明確でないことも珍しくない。たとえば『角川日本地名大辞典』は、上野国にあるとされた阿保藩について「藩の存立には疑問が残されている」[12]、上野青柳藩について「居所や藩領域が不明で、青柳藩と呼ぶことには疑問がある」といった見解を示している[13]。また、限られた史料の中で藩主名や所在地などが誤伝されることも珍しくない。たとえば武蔵国鳩ヶ谷で5000石を与えられた阿部正勝の居所を、相当する地名が存在しない「武蔵国市原」としたり、さらには「伊豆国市原」と記す史料が存在する(鳩ヶ谷藩参照)。
  3. ^ 通称「加部安」。「加部安左衛門」は当主によって襲名される名で、歴代のうちでは7代加部重実・8代加部光重、江戸時代後期の10代加部兼重幕末明治期の12代加部嘉重が著名である[17]
  4. ^ 大戸関所は、寛永8年(1631年)に幕府によって設置された[15]。その前身となる関所が、寛永6年(1629年)まで大戸村の西にあたる本宿村関谷にあり、これはもともと戦国期に真田氏が設置したものという[5]。ただし本宿村自体が寛永20年(1643年)に大戸村から分村した村であるという叙述もある[8][18]。なお、大戸関所は江戸時代後期に国定忠治が処刑された地として知られる[8]

出典[編集]

  1. ^ 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 3.
  2. ^ 『歴史の道調査報告書 信州街道』, pp. 7–9.
  3. ^ a b c d e f g 『群馬県史 第2巻』 1917, p. 18.
  4. ^ a b 『角川新版日本史辞典』, p. 1298.
  5. ^ a b c d 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 7.
  6. ^ a b c 清田黙 (1891年). “徳川加封録・徳川除封録”. 鴎夢吟社. p. 巻2之15-16. 2023年6月15日閲覧。
  7. ^ a b c 大戸藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月28日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h 大戸村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月28日閲覧。
  9. ^ 『藩と城下町の事典』, p. 139.
  10. ^ 『群馬県吾妻郡誌』, p. 1097.
  11. ^ 『群馬県吾妻郡誌』, pp. 242, 274, 1097.
  12. ^ 阿保藩”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
  13. ^ 青柳藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月26日閲覧。
  14. ^ 『歴史の道調査報告書 信州街道』, pp. 3–4.
  15. ^ a b 『歴史の道調査報告書 信州街道』, p. 8.
  16. ^ 大戸(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月28日閲覧。
  17. ^ 元群馬No.1大富豪「加部安左衛門」”. マイロックタウン東吾妻. 東吾妻村企画課. 2023年2月28日閲覧。
  18. ^ 本宿村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月28日閲覧。
  19. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第千百二十二「岡」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.842
  20. ^ 成羽町史 通史編 目次”. 国立国会図書館サーチ. 2023年3月1日閲覧。
  21. ^ 大西泰正 2019, Kindle版位置No.4170/4618.

参考文献[編集]

  • 駿府政事録』。doi:10.20730/200022977https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200022977/ 
  • 群馬県教育会 編『群馬県史 第2巻』群馬県教育会、1917年https://dl.ndl.go.jp/pid/1258734/ 
  • 群馬県吾妻教育会 編『群馬県吾妻郡誌』群馬県吾妻教育会、1929年https://dl.ndl.go.jp/pid/1209825/ 
  • 『信州街道』群馬県教育委員会〈群馬県歴史の道調査報告書 5〉、1980年。doi:10.24484/sitereports.101971NCID BN13717251 
  • 『日本歴史地名大系 群馬県の地名』平凡社、1987年。 
  • 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。 
  • 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。