土御門雅房

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土御門雅房
時代 鎌倉時代中期
生誕 弘長2年(1262年
死没 正安4年9月28日1302年10月19日
別名 尹大納言
官位 正二位大納言弾正尹
主君 亀山院伏見天皇後伏見天皇後二条天皇
氏族 村上源氏久我流土御門家
父母 父:土御門定実、母:杉原政平
兄弟 雅房親定定宗、定空
雅長
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土御門 雅房(つちみかど まさふさ)は、鎌倉時代中期の公卿太政大臣土御門定実の子。官位正二位大納言弾正尹尹大納言と称される。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

『徒然草』第128段の雅房[編集]

雅房は『徒然草』第128段に登場することで知られ、讒言によって近衛大将になり損なった、とされている。実は、雅房は伏見天皇が即位すると権中納言を辞したのだが、父定実も同様に大納言を辞している。

このことは雅房がどうやら亀山院派であることの証左であり、亀山院と関係が良くなかった後深草院の院政下では昇進が難しかったと推測できる。そのため雅房が権大納言に任ぜられ父定実も昇進することになったのは、後深草院が正応3年(1290年)に出家し伏見天皇による親政が始まってからということになる。

雅房が近衛大将を兼ねることができたとすれば家格から見て権大納言に任ぜられてからであり、近衛大将兼任を逃した代わり最終的には弾正尹を兼ねることになったのである。定実が太政大臣に任ぜられたのは後二条天皇が即位してからであり、定実・雅房親子が持明院統派に接近したのかどうか、検討の余地がある。

この段の「院」を従来は「亀山院」としているが、上記の状況を勘案すれば「伏見院」となるのではないかとも考えられる[3]。ただし、雅房が弾正尹を兼ねたのは後宇多院政下であり、伏見院政下では近衛大将になれなかった雅房を遇するために後宇多院が弾正尹に任じたとも考えられる。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 父・定実の坊官賞の譲り。
  2. ^ 新院当年御給。
  3. ^ 米田真理子が平成16年(2004年)に博士学位を得た学位請求論文「『徒然草』とその時代―転換期の文学」において同様の結論が導かれているようである。大阪大学大学院文学研究科、論文内容の要旨第18309号による。

参考文献[編集]