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呪符

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

呪符(じゅふ)は道教方術のための文字符号を記した札、またはその記された文字や符号[1]。一種のおまじないでもある。

台湾中国大陸道教信者はこれを用いて未来を占う。医療が発達していない時代には「」は単純におまじない、お札の効果もあるが医療や医学など様々な場面で使用された。呪符以外にも、呪言ともあり、簡略して「お札」ともいわれている。

歴史

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黄帝

最も古い「符」は「五岳真経図」・「八会之書」といわれている。漢代に洛陽郊外の邙山、漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符である。 また、「五岳真経図」は、東西南北中央の五つの山の形を示す、五つの霊図からなっているが、それぞれは春・夏・秋・冬・土用となっている[2]睡虎地泰簡(262年)、日書(卜占に関する書)。

段玉裁

府礼や文習として広く用いられ中国では戦国時代から唐代まで使用されていた。二つの竹を割ることから始まった竹簡のものであるに段玉裁の『説文解字注』による。

清代で少しずつ廃れてきたが信仰者たちは関係なしに無意識にも使用し続けた『後漢書』で黄帝太上老君が薬の一部として使用していたことが記載されている。道教が確立される以前から符というものは存在していたのである。太上老君はまたの名を太上道君という。

中国において符を用いたとされているのは、はるか大昔とされているが年代は確定されていない。また、霊符など同じ動きを持つものすべてを呪物の一種と捉えることとし、それは紙ならず、石であったり、竹や木であったり、縄であったり、特定の魚などでもあったりする。例えば、日本の正月風景でおなじみの門松や注連縄飾りなども、これらの呪物の一種である。神社などで授かる家内安全などのお札にいたっては、霊符以外の何物でもない。

霊符は中国古代の敬天崇地思想に由来するものと考えられている。この思想は文字の通り、天を敬い地を崇拝する、つまり自然を尊ぶ考え方である。古代中国の人々は大空に輝く太陽、月、星を仰ぎ、あるいは広大な山岳河川の姿を拝見し、風雨雷電の自然原料に驚き怖れ、いつかそれらを神格化して祭祀するようになったのである。また、道教の起源はこの敬天崇地思想なあり、同時にそれが道教における霊符の素ともなったということなのだ。実際に道教の霊符を仔細に見てみると、その複雑な図形の中に、日月星を象徴していて、あるいは山岳、河川、風雨、雷電などを意味するものが多く確認できたのだ。なお、霊符の最も早い文献上の記載は、後漢・霊帝光和年間(一七八から一八四年)の『三国志』に見られるものだ。ここでは、張角が始めた太平道で、霊符を使って病人を治したという記述があり、以後の逸話などでも、ある霊符を作り、これを使って地上の鬼神の主になるよう人に授けたのである。人はこの霊符を使用して、さまざまな病を治療し、百鬼をこらしめ、土地の神々を駆逐しました。しかし、後にうっかりその霊符をなくしてしまい、彼に恨みを持っていた多くの鬼たちに殺されてしまった。このように使うばかりでなく、保管もできていないと自分に怨みが返ってきてしまう。恐ろしいものとして有名である。

さらに、日本での出土例では呪符が記された木間としては、七世紀前半とされる大阪市桑津遺跡のものが最も古いと考えられる[1]。南北朝時代に記された拾芥抄には、疫病が流行したときに使う呪符として「蘇民将来子孫也」という7字を記したものが挙げられており、その由来は備後国風土記であるというのである[3]

木簡と竹簡

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木簡と竹簡は最初に使われた紙に代用するものである[4]。 文字文化圏で確立は早い段階であったが、いざ甲骨文字で歴史性や伝承録を記載しようとすると紙がないためこのような竹や木に書いていた。なお、竹や木が使われていたというのは町中には生い茂り、確保が容易であったことが背景として存在し、また過去からの発掘の大本を調べていくと「殷」の時代のものが大多数を占めていることがよくわかる。当時の最先端の書写道具としても有名である。 「冊」という甲骨文字があり「この文字には竹と木を二つに割って紐で貼り合わせたという意味があるということから殷代には確実に竹簡と木簡があったとされている。

もともと、甲骨文字は「神のお告げを占うおまじない」とされていた。この甲骨文字自体が多く存在し、発掘されたことから文字文化圏の一つとしてすぐに中国が挙がることである。

また、文字によって動物などを現わしたりする際の工夫にいたっては、文字の記号一つで少々する必要がある。例を挙げると、「牛」と「羊」の甲骨文字は非常に似ていて、動物自体の体で表現するのは難しいため、角を利用し大きいものを牛に、小さいものを羊にと区別をするなど工夫をしている[5]

上記で上げている通り神の「お告げ」を知る占いとされている。それに対して中国で今使われている漢字は、今から三千年余り前の中国で使われていた文字の直接の子孫にあたる。漢字は長い歴史の間に外面的な姿こそ大きくして変化していくのである。それがほかでもなく書体の変化であるが、文字としてのシステムは、今の漢字も数千年前のそれと基本的にはほとんど変わってはいないのだ。三千年以上も前に記録された文字を、「書体の違い」という次元だけで理解できる文字は、世界が広いといえども漢字だけである。その意味では中国はまさに「文字の国」と呼ぶことにふさわしい。

また、過去から継承されている文化遺産や、現在の考古学による発掘の結果から見ていくと漢字自体は中国文学の「殷」の時代になってから使われていき、殷の時代の遺跡などから文字と考えられるものがこれまでに数例発見されている。

しかし、整然とした体系をもって使用されていて解読できる文章を表記し漢字は、殷の晩期(紀元前1300年から紀元前1000年)に使われていた甲骨文字が現在の段階で最も古い文字と称されている。 さらに殷の時代では亀の甲羅や牛の角を用いて占うのが主流だ。

通常の竹は約21センチ幅1センチ程度のものですが人間が一から作成しているためすべてが均等ではないことは確かである。出土しているものでは約22センチ幅1.2センチなどバラバラであり、また重要度を示していることが明らかで、さらにその材質の違いは書物としての重要度を反映していた。

普通の木簡はそのような形ではあったが、しかし特定の文書を書籍を書くときには、内容によって異なった形や長さの木が使われていた。例えば皇帝の詔勅は「尺一簡」、すなわち一尺一寸の簡に書かれていたし、儒学の経典では書物の価値に応じて、どのくらいの長さの簡が使われるのかが厳密に定められていた。漢時代の木簡のうちで最も長いのは二尺四寸(約五十センチ)あり、『周易』や『春秋』などの儒学で最も正統的とされる経書はその長さの簡に書かれていたとされている。実際にシルクロード地帯から『儀礼』という経典が発見されたがサイズはこの通り同じだったのである。

この規定に沿って考えていくと、『孝経』と『論語』は漢代ではまだ儒学の中心に位置する経書として考えられていなかったのである。また、普段よく目にかける、「名刺」も木簡の文書に由来していた。

それ以外にも木簡には実に様々な形状とサイズがあり、例えば特殊な用途に使われる木簡の一つに「檄」がある。

それは緊急軍事文書であり、二尺の簡が使われていた檄には送り先へ大至急届けることが必要という意味を示すために鳥の羽が使用されていたとも言う。

今日本語で用いている「檄を飛ばす」というのはもともと戦争などの緊急事態に際して危急を訴え、警戒を呼び掛ける文書を各地に迅速に届けることを指したのである。

名刺はもともと「刺」または「謁」といい、木簡の上に自分の姓名や相手への用件などを書き付けたのが始まりだとされている。他者を訪問した時に、まず、木簡を差し出して相手に面会を求めることを「刺を通ず」と表現するのである。また、この考えが現代に残っていると考えると木簡の一部に過ぎないと感じる。

しかし、最初から木を加工して札を作ろうする場合、木からは様々な形ができるため何もそんな幅の狭い札を作る必要はなく、最初からもっと広い何行でも書けるような板を作ったほうが、文字の記録にとってはるかに便利であることは間違いないだろう。だが、現実に発見される木簡のほとんどは、わざわざ狭い幅に切り取られていた。その結果から、木簡は字のごとく木ではなく、竹から作った札を模倣したものであり、竹簡の代用品としての役割を担っていたに違いない。ただし、竹であろうがどちらも有機物に値するので、亀の甲羅や動物の骨、あるいは青銅器、粘土板、石などと違って地中で簡単に腐ってしまうのである。

そのために古代に実際使われていた竹簡や木簡の実物があまり発見されていない。

このようにして木簡には様々な形態とそれに応じた用途が存在していたのだが、しかし、どんなに長い簡を使用したとしても書ける文字数には制限があるのだ。そこで一本の木簡では書ききれないほど長い文章では何本かの木簡に書き、それを順番に並べて、紐で張り合わせる方法が採用されたのである。これが書物の最も古い形態を現わしていて、このようなものを「冊書」あるいは「策書」というのだ。「冊」は上記でも述べた通り、木簡を並べたもの形を文字にしたもので、これを台の上に載せると「典」という字になります。このようにして作られた書物は一方の端からクルクルと巻いて保管されていたのである。これが後世に書物を数える単位として使われる「篇」で「篇」に竹冠がついているのはもともと書物が竹簡でできていたことに由来している。ちなみに「編」を用いることになったのはもう少し後の時代とされている。さらにまた、木簡や竹簡から紙の時代に入ると、クルクル巻いた書物を数える単位の一つとして「巻」という言葉が用いられるようになった。

このころはあまり使われなくなってきた表現ですが、ある書物を繰り返して読むことを「韋編三絶」という表現方法が存在していた。この言葉も、実はこのような書物の作り方から出現したものである。孔子は『周易』を読むのが大好きで何度も何度も繰り返して読んだために、木簡あるいは竹簡を閉じてあった紐がしばしば切れたともいうのである。これがのちの「韋編三絶」という故事成語になり、話は孔子の伝記である、『史記』の孔子世家に見られる。

また、ここで「韋」というものの存在が出てきたがこれはなめし革のことを指しており、孔子が愛読していた『』を普通の紐ではなく、丈夫な、なめし皮で閉じていたとされている。それでも「韋」が切れたということなのでよほどよく読んでいたことが理解できる。ただしこれについてはあくまで伝説であるので、実際の発掘ではなめし革で閉じられた冊書はまだ一つも発見されていない[6]

また、現在までに発見されている中国最古の竹簡は、1953年に湖南省長沙市の南に位置する仰天湖に存在している。戦国時代の楚の墓から発見されたものである。この墓は過去に盗掘されていたため書物などは多く発見することは不可能だったが、棺桶の覆いの間から合計四三枚の竹簡が発見されたのである。さらに、この墓の周りにはハマグリの貝殻を焼いて作った砂状のものが大量に一面に敷き詰められており、おそらくそれが防臭剤の役割を果たしていたので竹簡の状態は非常によく、文字も消え、欠けているところはなく良好である[7]

さらに、五斗米道時代の関連に似た木簡が出土した。たとえば平城京左京三条二坊の長屋王邸宅跡と左京二条二坊王邸宅の間から出土した木簡は縦301㎜、横28㎜、厚さ4㎜で、釈文を『上代木簡資料集成』[8]に従って示すと、

 1行目 米五斗  大豆一斗  小豆一斗  薪廿束
 2行目 糯米五斗 大角豆二斗 炭二石   胡麻子一斗
 
 1行目 胡麻油一斗 新小麦一石 扞櫃二合
 2行目 糖一斗   小櫃二合   合十三種天平八年=
 3行目 =十一月九日内申

と記載されており、木簡に記載されている通り天平八年=前後が中心的に発掘された。米・糯米・大豆・小豆・胡麻・新小麦などの穀物、胡麻油、高価な甘味である糖といった食品から、炭や薪、器具の小櫃・扞櫃に至っている、主に食膳に関係した十三種類の品々の名と数量を列記している。この時代には欠かせないものの一部であることが理解できる。まるで五斗米道がかき集めたかのような木簡の内容であったため参考に載せてみました[9]

符の起源

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符は主に道教で使用されていた[10]。 道教とは中国で生まれた二つの偉大な哲学的、宗教的伝統の一つである。

もう一つの宗教がいわゆる儒教に当たる。両者は大体紀元前6世紀、つまり前500年頃から400年頃に確立したといえる。中国の三番目の偉大な宗教は、期限直後にインドから西洋を経由して伝来してきた仏教である。これら三つの宗教が一体になり、2500年間近くにわたって中国人の生活や思想を形成してきた。また、道教が確立する以前から符そのものが存在していたともされているのだ。道教が確立されたときに符が使用されたことから、確立と同時にできたものとされている。

道教とは簡単に言えば、道教の「道」は自然の道を意味している。道教の信徒は自然の循環や自然界の絶え間ない変化を偉大な宇宙の力の地上における具現とみている。

漢字一時で様々な説明をすることができますが、道の一文字で宇宙の持続する道ととらえることができ、また、天土地の循環を示すこともできる。このように、文字一つで道教の意味を確認することができる。

道教では、言葉で言い表すことのできる「道」は真の道、つまり「恒常不変の道」ではないというのだ。道士や書物の著者は「道」を指し示すことはできるが、各人の「道」は自分自身で見出さなければならないのである[11]

よって、自分自身で「道」を見出すための手法としての符であれば、見出した後の符を用いることでの現世利益を信者は望んでいる。

さらに、霊符を題材とした物語も存在しています。 中国の人々の間では、霊符というものは非常に身近なものであり、中国四大奇書の一つとして、日本でも非常に人気のある『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』などの作品において霊符が多数使われている[12]

地域

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台湾南部と中国地域の共通性を調べたが全く無関係で、もはや「呪符」や「辟邪」などのものは一切なく、北部の九龍地域では多少あるのがみられる。だが厦門の西地域には呪符の復活がみられてきた。[13]氏が東南アジアや台湾、中国での呪符や符の地域について述べてある。

四世紀初頭、中国北部が東北、モンゴルチベットをはじめ、遥か北東から馬に乗って来襲する様々な遊牧民族の進行にさらされたため、南部に移住する天師道の道士が少なくなかった。戦争の影響などで北部から南部に移住してくる信者に対して、天師道の道士たちは人々を土着の古い信仰から天師道に改宗させるために組織的な運動を精力的に展開し、貴族の改宗者を多数獲得することに成功し、信徒を大幅に増やしていった。しかし、道教は脱皮していこうと心掛けていて、また、南部では様々な宗教団体が出現しはじめた。その一つとして挙げられるのが「上清派」で、上清派は364年から370年にかけて楊羲(ようぎ)という道教の信徒である官僚が一群の神仙から啓示を受けたのである。さらに、天師道の慣習や儀礼を大幅に改めていき、道教を確固たるものに変化させていった。すなわち道教の「純粋」な教義を回顧するため瞑想と隠棲の効用を強調していった[14]

一方の北部では天師道が復活しつつあった。415年寇謙之(こうけんし)が太上老君から招かれて天子の位置を授けられるとともに道教を改革するよう命じられたと称し、天子道と『道徳経』との和合に着手したのだ。また、五斗米道の奉納米のような特定の習慣を腐敗、堕落であり、「こんなものが純粋な「道」といかなる関係があろうか」と非難した。寇謙之の提唱した改革は様々な人たちを魅了してその好意を獲得することに成功したのだ。太武帝は北魏における宗教的実践の全権限を寇謙之に与えて道教の国教化を促していき、その見返りに、太上老君のこの世における代表であることを示す印を寇謙之から与えられた。その結果、道教は中国の北部でも政治と文化に多大な影響を及ぼし続けることとなった[15]

また、618年、新しい王朝が政権を握り、中国は再統一された。当時の支配的な教団の1つでは茅山派、つまり上清派で、唐代にもっとも有名であった道士は司馬承禎である。司馬承禎は皇帝の精神面の師になり、瞑想についての論文が道教の経典にもなっている。『道徳経』は唐代には道教経典として重要視されていて、各家庭に一冊ずつ備えるように指示が施されていたほどである。瞑想煉丹には非常に人気が集まり、老子の誕生日は休日になり、道教の経典が全国区に普及していきチベット、さらにはインドネシアにまで広がっていった[16]

このような広がりを経て道教が確立していき、祭祀の一つとして呪符が形成されたのである。[17]


効用

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中国全土では、信仰者は「符」を用いて自身が加護されていると安心感を抱いていた。 まず、辟邪といい外部から侵入する魔障を防ぐために身体・家宅あるいは村落にある種の加工をしてまじない、魔よけなどをする。その第一類は、神仏の名号を印刷した札を入手して門戸に貼る物で、中国では道士に頼んでまで篆文のようなものを書いてもらって貼り、これを呪符と呼ぶ[13]

また、地獄に陥れるためのものとして用いることもある。したがって、念を凝らして書き上げた霊符を用いれば、様々な神を降臨させることができ、悪鬼を裁いていき、妖邪を降らし、魔人を鎮め、諸病を治療し、諸災を取り除くことができる。また、霊符を取り扱う注意に関してはよくお札やお守りなどを気にせず床の上や机などに放り投げたり普通に踏んだりする平気な人たちがいるがこのような人は持ち歩いたり、写実したりすることなど無用だ。さらに、書写した霊符に限らず、霊的なものはそれが呪文であっても、あるいは書物であっても、みだりに他人に見せることはそのものが持つ霊的パワーを損なうこととなり、よくないこととされている。自分の書いた霊符は人に見せないという原則の下、信者はしっかり守っているそうだ。また、符によっては、中身の見えない内符とそれを包む外符の二つからなるものがある。この場合、外符は直に見ることができるが、内符は外符を破らない限り見えないようになっているのが普通である。道教の符で例えたが、日本のお守りに至っても同じである。逆に書写した霊符を普段から身につける場合には、財運用などの霊符を財布に入れるような人もいるとは思うがこれはあまり効果が期待できない。財布に入れておくことで、霊符そのものが汚れてしまったり、文字が薄くなってしまったりなど、あるいは他人の目に触れることによって穢れが付いてしまう可能性が非常に高い。霊符の効能の期限は、神社などで授与する神棚に祀るおふだは、一年ごとに新しいものを受けて、古いものはお焚き上げするというのが一般的である。また、多数の霊符を取り扱っていた場合は天井などのなどに結び付けているのがよく見かける。上記と同様に不要になった霊符の場合、水に流したり、火で燃やしたりするなどと定まっている霊符が存在するが、一般的に古くなったり、汚れたり、破れたり、あるいは不要になった霊符は浄火で焼くか、清い山中等に埋める。また、焼いた後で清流に流すのは非常に良いのである。 その他の資料を拝見しても、霊符で「鬼神をお招きし、真の道を達成し、国を保ち、民を安定させる。」ものとして、偉大な力を持つことを強調しないものはない。霊符が道教の秘術中の秘術ととらえられてきたことがわかる[18]

主に道教信者が使うことによって周りにも影響したと考えられている。 運やめぐりあわせなどの考え方も一理あり、二つの片を合わせて証明するお札。このことを「割符」とも言う。または、簡略化して「しるしのあるお札」ともいう。証明するという意味を持っているので罪を問うときにも用いていた。このことを「免罪符」などともいうのである。 また、呪符では、ただ占いを行うだけではなく追い払うなどの効果も期待できるのだ。 札を火にたいてい乗ることで災厄を防ぐ呪力というものが入っている札。同様の呪力があると信じられている奇石・宝石・動物の骨・爪などの類も一部ある。 さらに、災難から逃れるための、御守りの類でもあるのだ。 道教信者は比較的密教的であり強制的な信仰をしないため徐々に広がっている。 文化の違いや宗教的価値観などもあるが比較的道具を使い神や天帝など存在してたのかすらわからないことを信仰しその文字を使い現世利益を唱えていたとされている。 現世利益だけではなく、人を呪ったり、ましてや陥れる。国家政治も変えてしまうほどの力を持っている。このような多大なる力を持っている「符」なので慎重に扱うことが重視されている[18]

呪符の種類

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数えきれないほど無数に存在している霊符は、主に字の組み合わせで成り立っているもの、図のみで成り立っているもの、字と図の組み合わせで成り立っているものの三つに分けられることができる。符は三種類に区分すると記載されており、また、別の符の紹介もある[19]

以下、「字符・図符・字図符」の三つに区分することができる[20]

  • 字符 - 文字通り、字の組み合わせで成り立っている霊符を指す。これが定番といえよう。符の中でも紙に文字が記載されているものが当たり前といえるだろう
  • 図符 - 図だけからなる霊符で「真形図」という名称で呼ばれることも多いともっともその図自体が、よく見ると各種の文字を変化させたものであったり、文字として扱われているようなことも多く、純粋に図だけという符は比較的に少ない。
  • 字図符 - 天神様の肖像などと符文を結合して、一つのものとした符録でありました。この種類の符録はかなり数多く古代中国墳墓などを発掘中に発見されることが多々ある。神からの直接いただいた文字としても意義をとれる[21]

前漢以前の符には、符薬、符信、竹使符、虎符、使符などと呼ばれるものがある[21]。 例を挙げると鎮宅霊符が道教確立以前に使用されたとのことである。鎮宅霊符は主に家内の安全を保つこと、また、そのために行われる祈禳の総称。安宅ともいう。人間が住む家屋及びその下の地域、土地などには様々な鬼神が満ちている。それらが人間の行う不適切な行動によって穢れ、観念されていた。なお、道教の道士たちも使用をしていた。悪影響を除くことを優先に行われていました。時代を重ねるに至って、道士たちは鎮宅霊符の技法を発展させ、五方角に貼るなどの技を編み出した。一般的には各戸の正庁に貼られるのが見えている[22][23]

霊符

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霊符とは、人間の力をはるかに超えた摩訶不思議な力を活用する手段の一つとして様々霊符(符簶、護符、呪符、おふだ、または、タリズンなどと呼ばれるもの)が使用されていた[24]

その中でも最も数多くの霊符を伝えてきたのは、間違いなく中国の伝統的な宗教である道教である。道教で使用される霊符はどれもこれも、一見、奇妙な文字や図形が書かれた不可解なものに見えるが、しかし、それらの文字や図形には全て深遠な意味が存在している。

霊符には、符の起源とされている「五岳真経図」と「三皇内文」などからわかるように、字または図、あるいは両方が描かれているものがある。またそういった図には、見ただけではっきり意味のわかるものも存在するが、まるで意味不明の象徴的なものも少なくはない。

そして、霊符は伝説に名を残す神仙をはじめ、優れた道士たちに用いられてきた。これらの霊符の効験は実にあらたかで、天災から人災に至るまであらゆる災いを断つのはもちろん、邪を払い、病魔すら退散させると言われている。いつまでも若々しく長生きしたいのは、誰しもが願う夢であるが、霊符はそれすらも叶えてしまう。また、国家の運命すら左右するほどだと言われている。

このような絶大な力を持つとされる霊符だが、単にコピーするだけではその霊験を発揮するわけではない。人が念を凝らして符を書き上げることによって、天井の神々が人界に降りてきて、その力が符に乗り移ることによって初めて霊応あるものとなる。したがって神に念より強力に伝えるために、多くの場合は呪文とセットになっている。

例えば、邪を祓うためのものも、山に入って修行する際に身につけて災いから避難するもの、体内に宿っていると言われる神々に不老長寿の身体を作ってもらうためのものも、天に輝く星の神々の力を借りて物事を成し遂げるもの、人生全般に使用することができるオールマイティ的なものなど、霊符はどんな状況においてもそれにふさわしいものが存在している、といっても過言ではない。

これほどの効験があるとされるだけに、現在でも、台湾、香港、東南アジアに住む中国出身者たちの間では、霊符に対する信仰は根強く、巷では各種の霊符はもちろん、多くの霊符を収載した書物などが売買されて、道観(道教の寺院)に行けば道士が希望者に霊符を書いてくれることもしている。台湾などでは、祖先の霊を祭る場所でもある廟にも、印刷されたものとはいえ、霊符が必ずといっていいほど置かれている。これは、誰でも自由に持ち帰って、使用してもいいような設定になっています。このようなサービスで、信者に現世利益などの効果を実際に体感させることで流行させて信者を増やすことが目的に当たる。

神や天帝から授かった文字を使用しているとも一説ある。基本的には自分の明日くらい自分で変えてみせるという考え方を一変させ符を用いて変える考え方である。

簡単に説明するなら、現世利益を得る。

嫌いな相手を殺傷させ、自分自身の災厄を取り除くといったような呪物である。

要するに、霊符に描かれている文字は元来、展開の神々が使用するものではありますが、それが地上界にもたらされたものであると考えられる。例えば、天神は空に彩なす雲の形状により、符を蒼空に描きだす。道を会得した優れた道士はこれを見て神意を感じ取り、布を紙に書き留め、世の中へ伝える。あるいは天神が直接、求道する人々にそれを授けることもある。つまり、霊符の始まりは神秘の天界から漏れ伝わったもので、地上界にもたらされた神々の指令であり、同時にそれは天の威力を顕示し、神が求道者に与える神通力の賜物であり、霊符は天神の意向を伝える符信(つたえ)ということもいうことができる。

また、霊符には#呪符の種類で挙げた通り三種類存在していてそれぞれにたくさんの意味を持っている。さらに霊符で用いる文字にも様々な意味があり、この文字一つを間違えて使うだけで効果はなくなり意味がない[25]

  • 卜兆文字 - 「卜兆」とは文字の通り亀の甲羅や動物の骨を焼き、吉凶禍福を占うことを言う。主に占いが主体となっていたことが読み取れます。このおかげで、自分の役職が確立した役人なども存在していました。
  • 金石文字 - 上記の「卜兆文字」が発見される以前は青銅や石などに刻まれていた周時代の「金石文字」が、中国最古の文字として考えられていた。これら周時代の金石文字を整理して、九三五二字に総括したのが『説文』といわれている。
  • 簶書 - 漢字の一書体であり、主に「大簶」と「小簶」とに分けることができる。この二つを知らなければ、簶書の霊符を読むこと自体が不可能になる。
  • 隷書 - 秦の程藐(ていばく)が、小簶を省略して作ったものとされている。また、霊符の神聖な性格からか、賤隷の繋がる古い隷書は用いられることが少なくま現在は隷書といえば、漢隷を指すことが多数存在している。
  • 楷書 - 読者問わず、我々日本人にもなじみのある字体の1つである。普通に我々が用いている漢字の「楷書」は、字の形を崩したり、略したりせず、正しくきちんと書いたものである。また、「行書」は「楷書」をやや崩して書いたものとなっている。「草書」は「行書」をさらに崩して書いたものとなっている。唐代になって印刷の能力が上がり、それから、宋代でも印刷術は進化を遂げて増々発展していきました[26]
  • その他 - 梵字であったり、または霊や神が取り付いて授けられたものとする、字とも図ともつかないものもある。またかつて「蒼頡文字」や「龍鳳之書」などというものがあったとされていたが現在では残ってはいない[27]

書写法と使用法

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用具は、いずれも霊符書写という霊的作業に用いるのだから品質は十分重視する必要がある[2][28]

  • 筆 - 大半の符は朱と墨があれば間に合います。最低限、墨用の筆と朱用の筆一本ずつ、合計二本の筆があれば大丈夫だ。後の説明での書くために必要な道具が多いため二つ準備する必要がある。
  • 墨と朱墨 - 墨には唐墨(中国産の墨)と和墨(国産の墨)の二つがある。符を書く場合には、青味がかかっている墨を使用する。また、朱墨を用いる際は、濃い色のものを使用することが義務付けられている。
  • 書写用の紙や板 - 特に指定がない限りは白紙に書くのである。和紙や黄紙に書くこともある。たいていの人がきれいな紙に書くことが命じられている。汚い紙や秘儀れている紙など味覚場合は効果が薄れてしまうため意味がありません。
  • 硯 - 硯の場合も、筆と同様に二つ用意してあるのが好ましい。上記で記載している通り、筆と墨が二種類常備されているので二つ用意することが命じられている。ただのペンなどで書いた場合は全く効果がないのである
  • 水 - 符の書写には当然、水が必要になるのである。水もただの水ではなく、清めてある水を使用することでより良い効果を期待できる。また、少量の水よりも大量の水を用意しておくことが基本的である[29]

霊符は、一定期間の斎戒の上で書写することが原則となっています。「斎戒」とは心身の清浄を保ち、禁忌を犯さないことである。同じような意味で「潔斎」という言葉があり、これも宗教的な儀式などの前、一定の間、酒や肉などを慎み、沐浴などをして心身を清浄にすること。「斎戒沐浴」などと呼ばれている。このようにして心身を清めることで、初めて紙に感応できることを熟知しておくことが必要だ[30]。 また、霊符は吉日を選んで書写することを推奨している。『日本書紀』に載っている、「時日を卜定して」・「吉日を撰びて」や『延喜式祝詞』にある、「八十日日は在れども今日の生日の足日に」を見るまでもなく、古くからことを行う際には吉日が選ばれる。これはもちろん、霊符の場合も同様である。符によっては、その特性または神霊との関連で、作成する日が厳密に規定されていて、例えば、「五岳真経図」は、東西南北中央の五つの山の形を示す、五つの霊図からなっているが、それぞれは春・夏・秋・冬・土用に書写する規定となっている。ちなみに、書写に適当な時間は、霊的なパワーが非常に高まるとされている、子刻から丑刻、つまり、真夜中の十二時ころから午前二時ころまでがよいとされ、また書写もできるだけこの時間帯を選ぶのがよいとされている。 霊符はそれ相応な心構えをしなければならない。霊符は、神秘的な霊力を持つ神文秘形の組み合わせからなるものであり、したがって、それを書写するときは、一運筆といえどもおろそかにすることは許されない。たとえ一点、一画であろうと、過不足があってはならないのである。霊符の力によって鬼などを駆逐できるのは、文字や図形などそれぞれに霊妙な意味があり鬼神がそれを知っているかに他ならない。きちんと書写しなければ、対峙することはできなくなり、また、自分自身に害を受けることになってしまう[31][30]

以上の規則を守って書写しなければならない[32]

呪法

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現世利益のために使用したと述べている。 白い紙、または利益によって種類を変えていき黄色の紙を用いて書く。また、赤い文字で書き記されているが赤字は人間の血である。人間の血を使用することによっ効果は絶大的なものとなり即効性を増す。また、呪法の1つとしても人を陥れたり、殺したりするものにも使われていた。 民俗的に考えて呪術とはいわゆる条文中の「小道」のことで具体的には呪詛やまじないの術のことを現わしている。この小道を用いて、人を呪って殺傷したり、基地を境に、境を基地に転換するなど超自然的な貢献を得ようとする技法のことを呪術といい、それを行う僧尼や男巫・女巫、修験者、陰陽師らを総称して呪術者というのだ。呪とはすなわち神へ対しての祈りを現わしていて甲骨文字と同様の意味がある。 さらに、呪文、呪物なくして行為を行うことはできず、この二つを用いて初めて成功する。よって現世利益をかなえることができる。 呪術の作法にはありとあらゆるパターンが存在している。「切る・刺す・打つ・叩く・射る」などの剋害を加えて、怨家に類似の結界を生じさせようとしている。また、日本でも多く見らるものが多数あり、一見変わった手法なども魅力の一つである[33]

  • 針を刺す・釘を打つ - 呪詛人形に釘を打つ例は先に日蓮宗で行われていた。呪詛の「呪い釘」にいろいろな種類のあることは、現段階で民衆でもわかることである例え釘刺しや針刺しなどは実際に資料などを拝見したことがあるだろうが持病にかかった際に物に釘を刺して「直してくれたら釘を抜く」と唱えてお呪いをするらしい[12]
  • 射る・切る - 怨霊、つきものを撤退させる呪術では、弓や刀を用いて射る所作や切る所作が繁用されている ただ単に射るのではなくわざと鬼神を射って威嚇させるなどの行為も存在している。さらに、弦を弾く音でも威嚇している[12]
  • 焼く- 焼く作法については呪詛のために行う場合と、穢れなどを焼尽するために行う場合があり、後者のケースのほうが用いられることが多いのだ。なお、現代のごま炊きの用法に用いられている[34]
  • 縛る-縛る呪法では密教や修験道、道教でよく用いられており、憑き物や祟りなす亡者などを縛る「霊縛法」が有名である。縛る際に、印と呪文を用いるが調伏する呪法を行う[34]
  • 結ぶ - 呪法の中では唯一プラス思考のまじないである。ルーツは具体的に縄を用いて縛ること不動明王などが手にしている「羂索」はその具象化であるずれも縛ることを行い自分の言うことを聞かせてその願いが叶ったら解いてあげるというバリエーションだ。また、日本以外でも世界各国でも恋人たちが行う儀式の一つである。「恋結」や「縁結び」などもこちらの名称から来たとされている[35]
  • 開く- 出産の際、門戸や窓、鍋釜の蓋たな家中しまっているものすべて開けて行くというお呪い。これは、日本各地で見ることのできたお呪いとしても有名です。産道が閉まって窮屈だと難産になる。そこで、家中閉まっているものを開けることでど産道を開くという類感呪術である[36]
  • 抜く- 上記の「開く」というお呪いと意味は大体似ている。柄杓などの底を抜く安産の呪いのものであった柄杓など中空の器は、全て子宮の象徴としているひその底を抜くことによって、中の胎児をスムーズに出すことを呪ったのである。ただしこの呪いは、避妊のお呪いになるとも一節言われている。底がなく穴が開いていて物が入れることができない=妊娠しないという発想にいたった[31]。実際の経験だと述べているのである。
  • 踏みつける - 小野僧正仁海が万寿二年(1025年)に行ったのが最初とされている転法輪法では、実物の人形を踏み潰して霊魂が抜けて出ていかないようにするための呪術に糸や紐を結んで球を作る呪的作法があります。例えば「クシャミをすると魂が抜けて死ぬ」という俗信があり、それを避けるために玉を結んでいるのである。これを、「鼻結びの糸」というのである。玉は魂で霊魂の意味があり、糸を玉にすることで霊魂をつなぎとめている[36]

七種類の霊符の用い方

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  1. 貼懸符法 - 紙や布、鏡、木などに霊符を書いて、門柱や室内に貼る。道壇の四方や中庭に懸けたり、魑魅魍魎など出現する場所や器物の上に貼る場合もある。
  2. 洗拭符法 - まず、紙に書いた霊符を焼いて灰にするのだ。その灰にしたものを身体などに塗ることによって自分自身に災厄が取り付かないようになるという効果である。
  3. 呑服符法 - 道教では、霊符を呑み込むことで病気を癒し、悪鬼邪気を追い払い、道を悟る場合があるのである。呑み込むことが目的である。
  4. 佩帯符法 - これは、符を髪の毛に挿したり、錦の袋などに入れて腰につけたりして携帯することを言うのだ。常に自分自身に纏わせておくことで自身の災厄を消すことが可能。
  5. 埋投符法 - これは、埋土、投水符法ということで、霊符を土に埋めたり河水などに投じたりする方法です子山の中に霊符を埋めるような場合には「封」という言葉を用いたりすることもあるら埋めるものは紙だけではなく、桃木とか、桐の木などの板や金属片など様々のものを埋めている。
  6. 直接符法 - 霊符を直接、手や足の裏に書いたり、または体の病幹部に書写しますれ霊符を刻んだ印を頭や足などに押す方法も一種。病気を治す、おに魔まを駆逐す、仙人の修行の一環といった目的の達成に効果のある符法の一つ。
  7. 焚焼符法 - 符を焼くことで効験を得る方法だ。通常、道教では鬼神をお招きする際には、まず、香を焚いて祝詞を心の中で唱え、さらに符を焚き呪文を唱えることが多いのだ。焚符にも法度が存在していてな方角や時間などの規定もある。この焚焼符法はかなりの熟練者ではないと使用することが危険なので霊符自体の扱いに慣れるまでは使用をしないほうがよさそうな符。
  8. その他の用法 - 上記で上げた符法よりもかなりマニアックなのが存在している。例えば霊符を二時間以上、水面に移した後、コップの水を飲む。これも病気を治す効果のある符法の一つですたコップなどに符を書き、神水を注いでそれを飲む方法。霊符を実際手に持ち、静かにして気長に病人の体をさする方法なども有名な符法の一つ[37]

道教以外の呪符

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  • 陰陽道 - 陰陽道とは、「萬物に陰陽の二元的な原理を立て、また、五行と称する五つの元素的な要素を組み合わせて、すべての存在、減少を解釈し、その意味を考える。」ことを重視している。

古代日本には陰陽寮があったため、日本を代表する呪符のものとも言え、呪符が発掘されることがある。 たとえば静岡県浜松市の伊場遺跡出土から出土した呪符木簡は縦322㎜、横67㎜、厚さ4㎜で、釈文を『上代木簡資料集成』[38]に従って示すと、

 1行目 百恠咒符百々恠宣受不解和西恠□□〔亡ヵ〕令疾三神□〔宣ヵ〕□□
 2行目 宣天罡直符佐□當不佐□〔亡ヵ〕急々如律令
 3行目     弓 龍神
 4行目 (絵) 人山龍  急々如律令
 5行目     人山龍

 1行目 戌 
 2行目 戌 (符籙)急々如律令
 3行目 戌 

と記載されており、「百恠咒符を百々の恠、宣受せよ」で始まり、「疾三神」や北斗星を意味する「天罡(岡)」などの用語を用いつつ末尾に用いる「急々如律令」の定型句がある。年代については7世紀末~8世紀前葉、8世紀後半~10世紀中頃の説があって一致しない[39][40][41]

上記で「(絵)」、「(符籙)」と示した部分の具体的様相を示す図版は発掘調査調査報告書で確認でき[42]、釈文の別解は奈良文化財研究所のデータベース「木簡庫」で確認できる。

当該の木簡と中国の昌寧で出土した木簡との関連を述べた論文もある[43]

呪符木簡については、奈良文化財研究所のデータベース「木簡庫」のメニューから「キーワード」に何も入れず、項目検索→内容→呪符をチェックして検索すると2020年1月現在で登録点数54812件中、590件ほどヒットする。

  • 神道 - これは日本固有のもので、神社や神道系の宗教団体から排出されている。日本を代表するものである。まさに神社などで販売されてい「お守りやお札」に近い感じである。るじ
  • 密教 - 真言密教天台密教が源であり、梵字諸仏諸天などが付図の各所に書かれている。密教制度ということもあり、信者が気を付けて使用しなければならないという使命が存在している。
  • 修験道 - 修験道は日本古来の山岳信仰に基づくものであるが、天台、真言の密教をはじめとして、神道、道教、民間宗教などの要素が混在している。修験道は一般民衆の現世利益の要求にこたえて各種の霊符を作っている。
  • 寺院の霊符 - 日本の多くの寺院では「御影」と呼ばれる諸仏の姿を版木などで掘ったものを、病気直しや災難除けの霊符として授与することが少なくない。神道系と同様、日本で販売されているお守りに似ている。
  • 日蓮系 - 日蓮はみなご存じの通り、布教の方便として、『法華経』に基づく霊符作って大きな霊験を得たとされている。これもまた、日本を代表するものである。
  • その他 - 明治に活躍した会津の易者中川万之丞は、真言密教修験道、神習教を修行し、福島県岩瀬御料地の神職補少教監になった。信者に独特の呪符を与え、「東方木徳神守護・(花押)早九字の四縦五横の線」が残されている。その後、冊子「呪法」に呪符60種がある。(大東流武田惣角研究家 池月映)

西洋のアミュレット

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西洋では悪魔や病気を防ぐために身体に身に着けるお守りとしてのアミュレット(Amulett)と金属または石で作って所持するものを災難や病気から守るタリスマン(Talisman)がある[44]

脚注

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  1. ^ a b 林淳、小池淳一『陰陽道の講義』嵯峨野書院、2002年10月、310頁。ISBN 4782303610NCID BA59082484 
  2. ^ a b 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、90頁。ISBN 9784054010116 
  3. ^ 富士川游『信仰と迷信』磯部甲陽堂〈日本民俗叢書〉、1928年2月、102頁。 NCID BA36450421 
  4. ^ 阿辻哲次『漢字の社会史・東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年3月8日、42頁。ISBN 4-569-60364-5 
  5. ^ 阿辻哲次『漢字のはなし』岩波ジュニア新書、2003年1月21日、26頁。ISBN 4-00-500421-0 
  6. ^ 阿辻哲次『漢字の社会史・東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年3月8日、84-90頁。ISBN 4-569-60364-5 
  7. ^ 阿辻哲次『漢字の社会史・東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年3月8日、91頁。ISBN 4-569-60364-5 
  8. ^ 『上代木簡資料集成』おうふう、1994年2月、61,144頁。ISBN 4273027585NCID BN10394542 
  9. ^ 『『平城京長屋王邸宅と木簡』』吉川弘文館、1991。ISBN 4642076700 
  10. ^ 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版. “符(ふ)とは”. コトバンク. 2019年10月29日閲覧。
  11. ^ 黄海德『簡明道教辭典』Sichuan da xue chu ban she、1991年、245-246頁。OCLC 756463736http://worldcat.org/oclc/756463736 
  12. ^ a b c 藤巻一保『呪術の本・禁断の呪詛法と闇の力の血脈』学習研究社(原著2003年1月21日)、123頁。ISBN 9784056029512 
  13. ^ a b 大形徹坂出祥伸頼富本宏『道教的密教的辟邪呪物の研究・調査』星雲社、2005年2月。ISBN 9784434054983NCID BA71323003 
  14. ^ 大形徹坂出祥伸頼富本宏『道教的密教的辟邪呪物の研究・調査』星雲社、2005年2月、1416-頁。ISBN 9784434054983NCID BA71323003 
  15. ^ 大形徹坂出祥伸頼富本宏『道教的密教的辟邪呪物の研究・調査』星雲社、2005年2月、18-21頁。ISBN 9784434054983NCID BA71323003 
  16. ^ 大形徹坂出祥伸頼富本宏『道教的密教的辟邪呪物の研究・調査』星雲社、2005年2月、22頁。ISBN 9784434054983NCID BA71323003 
  17. ^ 大形徹坂出祥伸頼富本宏『道教的密教的辟邪呪物の研究・調査』星雲社、2005年2月、23-27頁。ISBN 9784434054983NCID BA71323003 
  18. ^ a b 阿辻哲次『漢字の社会史・東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年3月8日、46-52頁。ISBN 4-569-60364-5 
  19. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、247頁。ISBN 9784054010116 
  20. ^ 黄海德『簡明道教辭典』Sichuan da xue chu ban she、1991年、193頁。OCLC 756463736http://worldcat.org/oclc/756463736 
  21. ^ a b 黄海德『簡明道教辭典』Sichuan da xue chu ban she、1991年、194頁。OCLC 756463736http://worldcat.org/oclc/756463736 
  22. ^ 王充『『論衡』解除編』。ISBN 9788996668107 
  23. ^ 山田勝美『山田勝美訳『論衡 上』明治書院<新釈漢文大系>』明治書院、1976年。ISBN 4-625-57068-9 
  24. ^ 富士川游『信仰と迷信』磯部甲陽堂〈日本民俗叢書〉、1928年2月、64-65, 98頁。 NCID BA36450421 
  25. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、16頁。ISBN 9784054010116 
  26. ^ 阿辻哲次『漢字のはなし』岩波ジュニア新書、2003年1月21日、58頁。ISBN 4-00-500421-0 
  27. ^ 藤巻一保『呪術の本・禁断の呪詛法と闇の力の血脈』学習研究社(原著2003年1月21日)、147頁。ISBN 9784056029512 
  28. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、235頁。ISBN 9784054010116 
  29. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、236頁。ISBN 9784054010116 
  30. ^ a b 黄海德『簡明道教辭典』Sichuan da xue chu ban she、1991年、274頁。OCLC 756463736http://worldcat.org/oclc/756463736 
  31. ^ a b 藤巻一保『呪術の本・禁断の呪詛法と闇の力の血脈』学習研究社(原著2003年1月21日)、124頁。ISBN 9784056029512 
  32. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、238頁。ISBN 9784054010116 
  33. ^ 藤巻一保『呪術の本・禁断の呪詛法と闇の力の血脈』学習研究社(原著2003年1月21日)、153頁。ISBN 9784056029512 
  34. ^ a b 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、179頁。ISBN 9784054010116 
  35. ^ 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、181頁。ISBN 9784054010116 
  36. ^ a b 大宮司朗『道教秘伝・霊符の呪法』(初版)学習研究社(原著2002年7月5日)、182頁。ISBN 9784054010116 
  37. ^ 藤巻一保『呪術の本・禁断の呪詛法と闇の力の血脈』学習研究社(原著2003年1月21日)、162-163頁。ISBN 9784056029512 
  38. ^ 『上代木簡資料集成』おうふう、1994年2月、87,170頁。ISBN 4273027585NCID BN10394542 
  39. ^ 竹内理三 編『伊場木簡の研究』東京堂出版、1981年9月。 NCID BN00346860。「本書所収の芝田文雄著「百怪呪符」」 
  40. ^ 和田萃「呪符木簡の系譜」『木簡研究』第4号、木簡学会、奈良、1982年11月、97-136頁、doi:10.11501/4424289ISSN 0912-2060 
  41. ^ 奥野義雄「いまに息づく呪符・形代の習俗―遺物・記録が語るまじない習俗文化史―」『木簡研究』第16号、木簡学会、奈良、1994年11月、237-264頁、doi:10.11501/4424301ISSN 0912-2060 
  42. ^ 浜松市郷土博物館 編『伊場遺跡発掘調査調査報告書』(pdf)浜松市教育委員会、1976年3月25日、図版第十 木簡見取図9(第三十九号),図版第二十九 木簡写真10(第三十九号)頁。doi:10.24484/sitereports.16065NCID BN10394542https://sitereports.nabunken.go.jp/160652020年1月17日閲覧 
  43. ^ 朴成天、金始桓、橋本繁(訳)「昌寧・火旺山城蓮池出土木簡」『木簡研究』第16号、木簡学会、奈良、2013年11月、237-264頁、ISSN 0912-2060NAID 40019917193 
  44. ^ 富士川游『信仰と迷信』磯部甲陽堂〈日本民俗叢書〉、1928年2月、98頁。 NCID BA36450421