呉白龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉白龍
各種表記
チョソングル 오백룡
漢字 吳白龍
発音 オ・ペンリョン
テンプレートを表示

呉白龍オ・ペンリョン1913年 - 1984年)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人1970年代初頭に、満州での抗日パルチザン活動の様相を記した手記『司令部をたずねていく途上で』を記した。長男は呉琴鉄(上将、空軍司令官・人民軍副総参謀長を歴任)、次男は呉鉄山(上将、海軍政治副司令官)。

生涯[編集]

東北抗日聯軍に参加[1]。日満軍警の討伐でソ連に退避するが、第88特別旅団に編入されずにソ連軍偵察部隊の要員として活動した[2]。偵察・工作活動で成果を上げ、とくに朝鮮北部の有力人士を連れ帰る任務では、ソ連軍が連れ帰った人物の地位や職務の重要性に注目し、朝鮮国内の協力者として訓練させ、呉白龍は機密保持のため一時中央アジアの朝鮮人コルホーズに隔離された[3]。1949年12月、38度線警備第1旅団長に就任[1]。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると東海岸に侵攻した(国境会戦)。第1警備旅団が改変され、第8師団長。

1958年2月、中将進級と同時に内務省副相兼護衛総局局長[1]。1968年7月、大将進級[1]

1984年4月6日、死亡[4]

略歴[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 韓国国防部 2005, p. 630.
  2. ^ “직계만 빼놓곤 숙청” (朝鮮語). 中央日報. (1982年3月27日). https://news.joins.com/article/1625404 2019年10月20日閲覧。 
  3. ^ 金 2012, p. 338.
  4. ^ “묵괴 오백룡대장병사” (朝鮮語). 中央日報. (1984年4月7日). https://news.joins.com/article/1760587 2019年10月20日閲覧。 
  5. ^ 6.25전쟁사 제9권-휴전회담 개막과 고지쟁탈전” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 312. 2019年6月10日閲覧。

参考[編集]

  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 下巻 漢江線から休戦まで』原書房、1977年。 NCID BN01786326 
  • 金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊 金日成と「特別狙撃旅団」』筑摩書房、2012年。ISBN 978-4-480-01542-6 
  • 6·25戦争史 第2巻-北韓의 全面南侵과 初期防禦戰鬪” (PDF) (朝鮮語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2019年6月8日閲覧。

外部リンク[編集]