吉士金
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吉士 金(きし の かね、生没年不詳)は古墳時代・飛鳥時代の豪族。名は金子(かね)とも記す。朝鮮半島の主として新羅との外交交渉を担当している。
経歴
[編集]推古天皇5年(598年)11月に新羅に派遣された吉士磐金[1]と同一人物とする説もあるが、ここでは別人として扱う。
→詳細は「難波木蓮子」を参照
『日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇4年(575年)4月に新羅に派遣されている。この時、同時に難波吉士木蓮子が任那に、吉士訳語彦(きし の おさひこ)が百済に派遣されている[2]。これにより、6月、新羅も使いを遣わし、調を貢進し、同時にもと任那の領域にあった4つの邑の調を貢進した、という[3]。
『書紀』巻第二十一によると、崇峻天皇4年(591年)8月、天皇は群臣に詔を出した。
「朕(われ)任那を建てむと思ふ。卿等(いましたち)何如(いか)に」
群臣達は、「任那の官家(みやけ)を復興すべきであります。みな、陛下の詔なさった所と思いは同じです」と答えた[4]。
これにより、紀男麻呂・巨勢猿・大伴囓・葛城烏奈良が大将軍として任じられ、各氏族の臣や連を副将・隊長とし、2万あまりの軍が筑紫国に出兵した。この時に金は新羅に派遣され、上述の木蓮子は任那へ赴き、任那のことを新羅に尋ねさせた、という[5]。
その後、『書紀』巻第二十二によると、推古天皇8年(600年)2月に新羅と任那が交戦し、ヤマト政権は任那に援軍を送り、新羅を討っている。この時に、金とともに派遣された木蓮子が再び任那へ行き、事情を調査している[6][7]。
以上が、朝鮮半島に関連する、吉士金の関与した事績である。その後の彼の行動については、記録されていないので、不明である。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀 四』岩波書店〈岩波文庫〉、1995年。
- 宇治谷孟 訳『日本書紀 全現代語訳 下』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 坂本太郎、平野邦雄 編『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年。ISBN 4642022430。
- 佐伯有清 編『日本古代氏族事典』雄山閣、2015年。
- 大平裕『「任那」から読み解く古代史 朝鮮半島のヤマト王権』PHP研究所〈PHP文庫〉、2017年3月3日。ISBN 4569766919。