コンテンツにスキップ

倉石源造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日安政3年3月2日[1][2]〉 - 1921年大正10年〉5月13日[3][注 1])は、日本政治家新潟県高田市

経歴

[編集]

越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる[2]漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した[2]。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった[2]。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続[1]、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する[2]。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた[2]。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し[2]師範学校高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した[2]

1911年9月、高田市が発足。12月に行われた高田市会議員選挙に当選。翌年1月、市会による市長選挙で当選、初代高田市長に就任した[2]。以来、改選ごとに市長の座にあった。市長在任中は、高田開府三百年祭が開かれ、新市庁舎の建設、高田商工学校(現・新潟県立高田商業高等学校)の開校、幼稚園やガス事業の市営移管などを行った[2]

就任から10年後の1921年、病気を推して大分市で開かれた全国市長会議に出席、病状は悪化し、帰途石川県和倉温泉で療養したが、5月13日在職中のまま死去した[2]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『高田市史』第2巻 38頁には「5月12日」と記載。

出典

[編集]
  1. ^ a b 人事興信所 編『人事興信録.第4版』人事興信所、1915年、く36頁。NDLJP:1703995 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『高田市史』第2巻 38頁。
  3. ^ 『高田市史』第2巻 39頁、83頁。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]