保科正丕
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和元年6月3日(1801年7月13日) |
死没 | 嘉永元年3月17日(1848年4月20日) |
改名 | 徳五郎(幼名)、正丕 |
別名 | 峯霞亭長彬(俳名)、五楽(画名) |
戒名 | 高顕院殿峯霞彩雲大居士 |
墓所 | 東京都杉並区和泉の大円寺 |
官位 | 従五位下、弾正忠、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総飯野藩主 |
氏族 | 保科氏 |
父母 | 父:保科正徳、母:玉樟院 |
兄弟 | 正丕、石河貞明 |
妻 |
正室:松平忠翼の長女・栄寿院(於トシ・鋭子) 側室:民(重枝) |
子 | 長男、次男、正益、照姫(松平容敬養女・奥平昌服正室のちに離縁) |
経歴
[編集]享和元年(1801年)6月13日、第8代藩主・保科正徳の長男として江戸で生まれる。生来から病弱だったため、はじめ正徳は幕府に正丕の出生届を出さなかったが、享和3年(1803年)に出生届を出して世子として認められた。文化14年(1817年)3月24日、父が隠居したため家督を継ぎ、12月に従五位下、弾正忠に叙位・任官する。日光祭礼奉行や大坂加番など、諸役を歴任した。また、外国船が日本近海にたびたび出没するようになったため、弘化2年(1845年)に外国船見張番所を設置している。弘化3年(1846年)にアメリカのジェームズ・ビドルが浦賀に来航してきたときは、浦賀の警備を務めた。
弘化5年(1848年)2月、2度目の大坂加番に任じられて大坂に赴いたが、間もなく発病して、嘉永元年(1848年)3月17日に死去した。跡を三男の正益が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 保科正徳(父)
- 玉樟院 ー 側室(母)
正室
- 於トシ、鋭子、栄寿院 ー 松平忠翼の長女
側室
- 民、重枝
子女
長男と次男は早世。