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佐々木頼綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐々木頼綱/六角頼綱
時代 鎌倉時代中期
生誕 仁治3年(1242年
死没 延慶3年12月24日1311年1月22日
別名 六角頼綱、三郎(通称)
戒名 寂光寺殿崇西
官位 左衛門尉検非違使従五位上備中守
幕府 鎌倉幕府 近江守護
主君 藤原頼嗣宗尊親王惟康親王久明親王
北条時頼時宗貞時
氏族 近江源氏庶流佐々木氏六角氏
父母 父:佐々木泰綱、母:足利氏[1]?
兄弟 経泰頼綱佐々頼起鳥山輔綱[2]
二階堂行章娘ら
頼明宗信成綱[3]宗綱時信
太田時連室、中山家親
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佐々木 頼綱(ささき よりつな)は、鎌倉時代中期の武将御家人近江国守護近江源氏庶流佐々木氏の本家六角氏2代当主。六角頼綱とも呼ばれる。

生涯

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仁治3年(1242年)、佐々木泰綱の子として誕生[4]建長2年(1250年)12月3日に北条時頼邸で元服[5][6][7]、時頼から偏諱(「頼」の字)を受けて[8]頼綱と名乗り、その翌年から鎌倉幕府に出仕して左衛門尉、備中守に任じられた。建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められ、70貫の費用を提供した[9]

建治3年(1277年)の北条貞時(時頼の孫)の元服式に立ち会い、六波羅評定衆に加わった。近江に郡代を設置したり不入だった竹生島寺社領徴税を行うなど守護権の強化も進めた。

ところが、徳治2年(1307年)に興福寺と領土問題で対立、興福寺衆徒が神木を奉じて強訴する騒ぎに発展したため、徳治3年(1308年)7月に尾張国に配流され、2年後の延慶3年12月24日(1311年1月22日)に失意の内に死去。享年69。

長男の頼明(よりあき)は弘安8年(1285年)の霜月騒動安達氏に与したとして既に廃嫡されており、他の息子達も早世したため、家督は末子の時信が継承した。

脚注

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  1. ^ 「沙々貴神社所蔵佐々木系図」「六角佐々木氏系図略」では足利頼氏の娘とするが、頼氏も同じく時頼の1字を受けた、頼綱とほぼ同年代の人物であり、年代的に矛盾しているため、足利義氏または泰氏の娘、或いはその他の家柄の出身と考えられる。
  2. ^ 『宇山家系図』
  3. ^ 盛綱とも。
  4. ^ 『群書系図部集 3, 第 2 巻』p.295、「佐々木系図」
  5. ^ 『吾妻鏡』建長2年12月3日条。
    建長二年(1250)十二月大三日甲午。天晴。今日。佐々木壹岐前司泰綱子息小童〔九歳〕。於相州御亭遂元服。号三郎頼綱。御引出物以下經營。盡善極美。一門衆群參。各随所役云々。奥州秋田城介等所被參會也。
  6. ^ 勝山1985, p. 244.
  7. ^ 山野 2012, p.166 表3.
  8. ^ 山野 2012.
  9. ^ 「造六条八幡新宮用途支配事」鎌倉中 近江入道跡

参考文献

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  • 勝山清次 著「佐々木頼綱」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、244頁。 
  • 佐々木哲 『佐々木六角氏の系譜』思文閣出版、2006年。
  • 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8 
  • 『国立歴史民俗博物館研究報告 第45集』「「六条八幡宮造営注文」について」海老名尚、福田豊彦、1992 より「造六条八幡新宮用途支配事」