六角義実

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六角義実
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年
死没 不明
改名 義実→宗能(法名)
別名 義久、高頼、隆頼、通称:四郎
官位 (佐々木系図によると)従三位参議大膳大夫権中納言
幕府 室町幕府 近江守護?
氏族 六角氏
父母 父:六角氏綱
母:足利政知娘(足利義澄妹)
兄弟 義実仁木義政
義秀武田義頼

六角 義実(ろっかく よしさね)は、戦国時代武将六角氏13代当主・六角氏綱の子として、沙沙貴神社所蔵の「佐々木系図」や『江源武鑑』などに見られる人物。ただし、同時代史料に義実が存在したという記録はない。

概要[編集]

沙沙貴神社所蔵の「佐々木系図」では、室町幕府10代将軍足利義稙猶子となり、従三位参議・大膳大夫・近江守護・権中納言に任ぜられたとされている。在野歴史研究家の佐々木哲は『鹿苑日録』の天文5年(1536年)、天文8年(1539年)五月の条に江州相公と記されているのは参議(参議の唐名は宰相、相公)義実とのことだとしている。ただし「公卿補任」や公家の日記などには六角氏が参議以上に任官したという記録はない。

実名は六角氏重臣の筆頭格「両藤」の一角である進藤久治山中久俊深尾久吉らの重臣、勢力下の浅井久政の偏諱から義久であるとする説がある。『鹿苑日録』では江州相公に比定される人物に義久との名を当てており、実際には義久と名乗っていた可能性が高いとしている。このほか「高頼」「隆頼」と名乗っていた形跡も見られる(『大永六年五月二十八日付青木社中宛六角隆頼願状』)。

その治世中、一貫して足利将軍家の庇護者として行動し、京を追われた足利義晴を領国近江に保護し、大永6年(1526年)には浅井亮政退治を青木社に祈願するなどの行動が見える。 天文3年(1534年)、観音寺城内の桑実寺で行われた12代将軍・足利義晴五摂家近衛尚通の息女・慶寿院との婚礼に際して父・氏綱と共にお色直しに参上した。(『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』)。義晴の帰京には従わなかった(『厳助往年記』)。天文6年(1537年)出家して宗能と号す(『続群書類従』に宗能名義での発給文書が掲載)。幕府内では将軍に次ぐ地位にあり、天文8年(1539年)には養父である足利義稙の十七回忌法要を主催し、堺政所足利義維を牽制、将軍就任を阻止した。

没年は天文15年(1546年)もしくは天文18年(1549年)、弘治3年(1557年)など諸説あり判然としない。