伊号第四十六潜水艦
表示
艦歴 | |
---|---|
計画 | 昭和17年度計画(マル急計画) |
起工 | 1942年11月21日 |
進水 | 1943年6月3日 |
就役 | 1944年2月29日 |
その後 | 1944年10月28日戦没 |
除籍 | 1945年3月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,184トン 常備:2,554トン 水中:3,561トン |
全長 | 109.3m |
全幅 | 9.10m |
吃水 | 5.34m |
機関 | 艦本式2号10型ディーゼル2基2軸 水上:14,000馬力 水中:2,000馬力 |
速力 | 水上:23.6kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:16ktで14,000海里 水中:3ktで60海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 95名[1] |
兵装 | 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首8門 九五式魚雷20本 22号電探1基 |
航空機 | なし |
備考 | 安全潜航深度:100m |
伊号第四十六潜水艦(いごうだいよんじゅうろくせんすいかん、旧字体:伊號第四十六潜水艦)は、大日本帝国海軍の潜水艦。伊十六型潜水艦(巡潜丙型)の6番艦[2]。
艦歴
[編集]1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、佐世保海軍工廠で1942年(昭和17年)11月21日起工、1943年(昭和18年)5月25日に艦艇類別等級別表に加えられ[2]、6月3日進水、1944年(昭和19年)2月29日に竣工した。横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入されて訓練に従事。
4月2日2145、愛媛県水無瀬沖で訓練のため潜航中、同じく潜航していた呂46と衝突し、潜望鏡が損傷してしまったため修理を受ける。
5月7日、不良箇所が発見され修理を受ける。5月30日に第15潜水隊に編入。
10月19日、伊46は呉を出撃し、フィリピンレイテ島東方沖合に進出する。26日、敵輸送船団を発見したとの報告を最後に消息不明。11月19日に帰投予定だったが、帰ってこなかった[3]。
アメリカ側記録によると、10月28日にフィリピン方面で米ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦「リチャード・M・ローウェル」の攻撃を受け戦没。艦長の山口幸三郎少佐以下乗員112名全員戦死。沈没地点はフィリピン東方沖合、北緯09度45分 東経126度45分 / 北緯9.750度 東経126.750度。
同年12月2日喪失認定[3]、1945年(昭和20年)3月10日除籍[4]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』419頁による。
艤装員長
[編集]- 山口幸三郎 少佐:1944年2月1日[5] -
艦長
[編集]脚注
[編集]- ^ 乗員数は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。
- ^ a b 昭和18年5月25日付 海軍内令 第1027号。「昭和18年5~6月 内令 2巻(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070177800 。海軍艦船要覧 2013, pp. 90–91
- ^ a b 海軍艦船要覧 2013, p. 99.
- ^ 昭和20年3月10日付 海軍内令 第228号。海軍艦船要覧 2013, p. 99
- ^ 「2月(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095600 、画像7、海軍辞令公報(部内限)第1310号(昭和19年2月1日)
- ^ 昭和19年12月2日(戦死認定時)付で中佐。「7月(4)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100 、画像29、マル秘海軍辞令公報甲第1856号(昭和20年7月14日)
- ^ 「2月(5)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096000 、画像37、海軍辞令公報(部内限)第1349号(昭和19年2月29日)
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
- 渡辺博史『海軍艦船要覧 艦艇・特務艦艇・特設艦船・その他』ブックショップマイタウン、2013年4月5日。ISBN 978-4-938341-86-2。