ヴァイセンフェルス

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ヴァイセンフェルス
Flag of ヴァイセンフェルス
Coat of arms of ヴァイセンフェルス
ヴァイセンフェルスの位置(ドイツ内)
ヴァイセンフェルス
ヴァイセンフェルス
the 市 of ヴァイセンフェルス の ブルゲンラント郡 内での位置
座標 北緯51度12分 東経11度58分 / 北緯51.200度 東経11.967度 / 51.200; 11.967座標: 北緯51度12分 東経11度58分 / 北緯51.200度 東経11.967度 / 51.200; 11.967
行政
ドイツ
ザクセン=アンハルト州
ブルゲンラント郡
市長 Robby Risch
基礎統計
面積 113.51 km2 (43.83 sq mi)
標高 100 m  (328 ft)
人口 39,745 (2021年12月31日)[1]
 - 人口密度 350 /km2 (907 /sq mi)
その他
標準時 CET/CEST (UTC+1/+2)
ナンバープレート BLK, HHM, NEB, NMB, WSF, ZZ
郵便番号 06667, 06688, 06652
電話番号 03443, 034446
ウェブサイト www.weissenfels.de


ヴァイセンフェルスドイツ語:Weißenfels、IPA: [ˈvaɪsənˌfɛls])は、ドイツ連邦東部ザクセン=アンハルト州南部ブルゲンラント郡の最大都市。 2018年12月31日の人口は4万409人で、州で5番目に人口が多い。 ザーレ川が中心部を流れており、州都ハレ (ザーレ)の約30km南に位置する。

歴史[編集]

新Augustusburg城
三位一体教会の聖堂

後にヴァイセンフェルスとなる地域の周辺で、フランク王国カール若王が2人の西スラブ人クニャージ(公)を殺害した。 殺害されたのはMiliduch公とNessyta公で、前者はかつてアウストラシア侵略を主導していた[2]

806年にはザーレ川洗い越し周辺に集落が有った事が判明しており、後に街や城が建設された。

1185年に都市権を得た。

1618年から1648年までの三十年戦争で街は荒廃し、人口は2200人から960人まで激減した。 1632年11月16日リュッツェンの戦いで戦死したスウェーデン王国グスタフ2世アドルフの遺体が、翌日にヴァイセンフェルスに届いた。

1656年ザクセン選帝侯領ヴェッティン家のザクセン=ヴァイセンフェルス公アウグストが、ザクセン=ヴァイセンフェルス公国英語版を建国し、ヴァイセンフェルスを首都とした。

1660年に宮殿の建設を始め、1680年に完成した。 ヨハン・フィリップ・クリーガーゲオルク・フィリップ・テレマン等の作曲家が活躍した。

1673年、教会に22のストップ(音色選択機構)を持つパイプオルガンが設置された。 ジョン・マナリングによると、ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ1世は侍医のゲオルク・ヘンデルの息子(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)のオルガン演奏を聴いて彼の才能を見出したとされる。

1702年ヨハン・ゼバスティアン・バッハザンガーハウゼン英語版(公国の一部)でオルガン奏者に志願したが、不採用となった。

1704年ルーテル教会の理論家のエルトマン・ノイマイスターが宮殿の教会の執事に就任した。

1713年、バッハはクリスティアン公にカンタータ「楽しき狩こそ我が悦び」を捧げた。 また、ヴァイセンフェルスの教会のパイプオルガンのために「トッカータとフーガ ヘ長調 BWV 540」を作曲した。

1746年、公国は消滅し、ザクセン選帝侯領(首都ドレスデン)に併合された。

1757年10月31日七年戦争ロスバッハの戦いの中でヴァイセンフェルスの戦いが行われた。

1815年ウィーン会議の結果、プロイセン王国(首都ベルリン)のザクセン州の一部になった。

1816年ヴァイセンフェルス郡英語版が設置され、ヴァイセンフェルスに郡都が置かれた。

2007年、郡が解体され、ブルゲンラント郡に編入された。

人口[編集]

街の人口推移(1960年からは原則12月31日の値)

人口
1825 6,423
1875 16,921
1880 19,654
1885 21,782
1890 23,779
1900 28,201
1925 35,756
人口
1933 40,119
1939 42,387
1946 50,995 ¹
1950 47,967 ²
1960 45,856
1981 39,125
1984 38,657
人口
1990 37,765 ³
1995 34,676
2000 31,946
2005 29,866
2006 29,669
2007 29,569
2013 39,909
Datasource since 1990: Statistical office of Saxony-Anhalt

1: 10月29日
2: 8月31日
3: 3 10月3日

合併[編集]

2010年1月1日の行政改革で、ヴァイセンフェルスはランゲンドルフ英語版マルクヴェルベン英語版ウイヒテリッツ英語版を合併した。 9月1日には、ブルクヴェルベン英語版グロースコルベータ英語版ライスリング英語版ライハルトシュヴェルベン英語版シュコルトレーベン英語版シュトルカウ英語版ターゲヴェルベン英語版ヴェンゲルスドルフ英語版を合併した。

政治[編集]

市役所

2014年市議会選挙の結果

議席
キリスト教民主同盟 13
ヴァイセンフェルス市民党 7
左翼党 7
社会民主党 6
正義同盟 3
国家民主党 1
ドイツのための選択肢 1
同盟90/緑の党 1
自由民主党 1

経済[編集]

19世紀の産業革命が起きてから、1991年に最後の向上が廃業するまで靴製造が主要産業だった。 以降は食品加工業が中心で、特に次の3社が有名。

  • Frischli:日用品
  • Tönnies Fleischwerk:ヨーロッパ3位の精肉企業で、3つの工場の内1つがヴァイセンフェルスに有る。
  • Mitteldeutsche Erfrischungsgetränke:ドイツ3位の天然水企業で、本社がヴァイセンフェルスに有る。

交通[編集]

スポーツ[編集]

バスケットボールフロアボールが盛ん。 プロバスケチームのMitteldeutscher BCの本拠地。

著名人[編集]

作曲家ハインリヒ・シュッツの家

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Statistisches Landesamt Sachsen-Anhalt, Bevölkerung der Gemeinden – Stand: 31. Dezember 2021 (PDF) (Fortschreibung)
  2. ^ Vickers, Robert H. (1894). History of Bohemia. Chicago: C. H. Sergel Company. p. 48. https://archive.org/details/historyofbohemia00vick 
  3. ^ Städtepartnerschaften der Stadt Weißenfels” (ドイツ語). weissenfels.de. Weißenfels. 2019年12月2日閲覧。