ヤチェク・マルチェフスキ
ヤツェク・マルチェフスキ Jacek Malczewski | |
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生誕 |
1854年7月15日 ラドム |
死没 |
1929年10月8日 (75歳没) クラクフ |
国籍 | ポーランド |
ヤツェク・マルチェフスキ(ポーランド語: Jacek Malczewski herbu Tarnawa、ロシア語: Яцек Мальче́вский、1854年7月15日 – 1929年10月8日)は、ポーランドの画家。ポーランドにおける象徴主義画家の代表的人物である[1] 。
経歴
[編集]1854年7月15日、ポーランド分割の時代のロシア帝国占領下のポーランド立憲王国のラドムで貴族の家庭に生まれる。父親のジュリアンは愛国者であり社会活動家で、ヤクチェクに11月蜂起の影響を受けたロマン主義文学の世界を教える。叔母はポーランドで有名な神秘家のワンダ・マルチェフスカであった。家庭教師として自然主義文学の小説家、アドルフ・ディガシンスキに教えを受けるなど、彼の子供時代が後の作品の製作活動に大きな影響をあたえた。
1872年にクラクフのクラクフ美術学校でレオンピカールのワークショップに参加。その後ウワディスワフ・ウシュチキェヴィチの講義も体験する。 1年後の1873年、校長であるヤン・マテイコ自身に才能を認められ、マルチェフスキーは、正式に学校に入学。Feliks Szynalewsk、 フロリアン・ツィンクに師事する。
1876年にパリへ渡り、エコール・デ・ボザールにあるアンリ・ラマンのスタジオで1年間学ぶ。その後アカデミー・シュイスでも学ぶ。
再びクラクフに戻りアカデミーの教授となった。その初期には歴史を題材にした絵画などを描いており、1890年ころから彼のミューズのマリア・バル等をモデルに象徴主義的な絵画にとりかかった。当時ヤング・ポーランド(ポーランドの文化運動)の一人とされた。
1929年10月8日、クラクフで死去。
彼の生地であるラドムには、彼の名にちなんだヤツェク・マルチェフスキ博物館がある。 息子ラファウ・マルチェフスキ も画家である。
作品
[編集]-
『Melancholia(メランコリア)』(1894)ポズナン国立美術館
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「死」(1902年)ポズナン国立美術館
- ポーランドのハムレットアレクサンデル・ヴィエロポルスキの肖像画
- 囚人
- 悪循環
- 鉱山での日曜日
- ステージでの死
- シビラックのヴィギリア(シビラックのヴィギリア)
- ドンキホーテとサンチョパンザ(ドン・キホーテ)
- 砂煙の中で
- 休息
- タデウシュ・ブウォトニツキとメデューサの肖像
- 不明なメモ。スタニスワフ・ブリニアスキーの肖像
- フェリクス・ヤシェンスキの肖像
- ヤン・カスプロヴィチの肖像
- マーガレットとカロル・ランコロンスキーの肖像
- ヴワディスワフ・レイモントの肖像
- ヤツェクの帽子をかぶった自画像
- バカンテ(マイナス)
- キリストとサマリアの女(サマリアの女)
- エマオのキリスト
- トビアスと天使 (マルチェフスキ)
- トビアスと公園
- 白い衣装を着た自画像
外部リンク
[編集]- マルチェフスキの絵画(ポーランド語)
脚注
[編集]- ^ Szymalak-Bugajska, Paulina (2017年). “Jacek Malczewski – rycerz polskiej sztuki” [Jacek Malczewski - Knight of Polish Art] (ポーランド語). niezlasztuka.net. May 15, 2021閲覧。
関連項目
[編集]- アルトゥル・グロットゲル ヤチェクが影響を受けた画家
- マウリツィ・ゴットリープ 友人