ボリス・ハイキン

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ボリス・エマヌイロヴィチ・ハイキン
出生名 Борис Эммануилович Хайкин
生誕 1904年10月26日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ミンスク
死没 (1978-05-10) 1978年5月10日(73歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
ジャンル クラシック
職業 指揮者
共同作業者 ボリショイ劇場
キーロフ歌劇場
レニングラード・マールイ劇場

ボリス・エマヌイロヴィチ・ハイキンロシア語: Бори́с Эммануи́лович Ха́йкин, ラテン文字転写: Boris Emmanuilovich Khaykin(Khajkin, Chaikin, Khaikin), 1904年10月26日ユリウス暦10月13日) ミンスク - 1978年5月10日 モスクワ)は、ソビエト連邦指揮者モスクワ音楽院教授ソ連人民芸術家1972年授与)。弟は物理学者電波天文学者セミョーン・ハイキンロシア語版ユダヤ系

概要[編集]

モスクワ音楽院でニコライ・マルココンスタンチン・サラジェフに指揮法を、アレクサンドル・ゲディケピアノを学ぶ。音楽院卒業後、1928年から1935年の間、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ(現モスクワ・スタニスラフスキー=ネミローヴィチ-ダンチェンコ音楽劇場英語版)で指揮者を務める。この間、指揮を執った主な演目に『セビリアの理髪師』、『カルメン』などがある。

1936年、活動の場をモスクワからレニングラードに移し、ボリショイ劇場の指揮者に転出したサムイル・サモスードの後任としてレニングラード・マールイ劇場の指揮者に就任した。同時にレニングラード音楽院での教授も始めるようになる。マールイ劇場では、ムソルグスキーチャイコフスキーリムスキー=コルサコフなどのロシア・オペラの古典を指揮するとともに、同時代のソビエト作曲家の新作初演をいくつか手掛けている。主な作品としては、ドミトリー・カバレフスキーの『コラ・ブルニョン』、イヴァン・ジェルジンスキーの『開かれた処女地』があげられる。

1943年に同じレニングラードにあるキーロフ歌劇場に移り、ここでもまたソビエト作曲家の新作初演を多く手掛けている(プロコフィエフの『修道院での結婚』(1946年)、『真実の人間の物語』(1948年)、ジェルジンスキーの『Князь-озеро』(1947年)、カバレフスキーの『タラスの一家』(1950年)など)。

1954年、ハイキンはモスクワに戻り、ボリショイ劇場の指揮者及びモスクワ音楽院の教授に就任、以後、没するまで在任した。1978年にモスクワで死去。ドンスコイ墓地ロシア語版に埋葬された。門下にはキリル・コンドラシンマルク・エルムレル等がいる。

録音など[編集]

録音は主にメロディアに残されている。劇場での活動を主としたハイキンらしく、ムソルグスキーの『ホヴァーンシチナ』(モノラル・ステレオの2種)、チャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』、『スペードの女王』、グラズノフの『四季』、グリエールの『赤いけしの花』などオペラバレエ音楽の録音が多いが、交響楽の指揮者としても成功を収めており、リムスキー=コルサコフ、グラズノフなどの交響曲ロストロポーヴィチ等の伴奏を担当した協奏曲録音を残している。ロストロポーヴィチとは、ショスタコーヴィチ編曲によるシューマンの『チェロ協奏曲』初演も行っている。

マールイ劇場時代の1940年、ヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇『ジプシー男爵』の上演にあたり、最終幕にポルカ観光列車』を挿入しようと考えたが、オーケストラ用の楽譜が入手できず、ショスタコーヴィチに管弦楽編曲を依頼した。この編曲が人気を呼んだため、翌年5月、新たに『ウィーン気質』の管弦楽編曲をショスタコーヴィチに持ちかけたが、直後に大祖国戦争が勃発し企画は頓挫している[1]

脚注[編集]

  1. ^ 参考文献 工藤 p.276

参考文献[編集]

外部リンク[編集]