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ピエール・エミール・ルバスール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピエール・エミール・ルバスール
Pierre Émile Levasseur
撮影:ムーリス通信社 (1909年)
人物情報
生誕 (1828-12-08) 1828年12月8日
フランス王国パリ
死没 (1911-07-10) 1911年7月10日(82歳没)
フランスの旗 フランス共和国・パリ
居住 フランスの旗 フランス・パリ
国籍 フランスの旗 フランス
出身校 リセ・コンドルセ
フランス高等師範学校
配偶者 Nathalie Wolowska
両親 ヴィクトル・ジュール・ルバスール
学問
研究分野 社会科学 歴史学 経済学 統計学 地理学
研究機関 コレージュ・ド・フランス
学会 フランス人文院
プロイセン科学アカデミー
スウェーデン王立科学アカデミー
主な受賞歴 レジオンドヌール勲章グラントフィシエ
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ピエール・エミール・ルバスールPierre Émile Levasseur1828年12月8日 - 1911年7月10日)は、フランス歴史家経済学者統計家地理学者教授1903年からはコレージュ・ド・フランスの校長を務めた。

経歴

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ウージェーヌ・ピルー撮影
(1882年)

彼はパリ市の地理学者、測量士のヴィクトル・ジュール・ルバスールの子として生まれた。祖父のヴィクトル・ガブリエル・ルバスールフランス第一帝政の軍人で、准将まで昇進した人物であった。ピエールはブルボン大学(現在のリセ・コンドルセ[1]で中等教育を受け、1849年にフランス高等師範学校に入学し、イポリット・テーヌリュシアン=アナトール・プレヴォーと同じクラスで学んだ。彼の専攻は経済史であった。彼は1854年に現代文学のアグレガシオンの資格を取得し[2]、同年にフランスの法制度に関する博士論文を提出した[3]。彼は、アランソンのリセの教師に任命され、1857年ブザンソン修辞学の教授に就任した。その後、彼はパリに戻り、リセ・サン=ルイで教鞭を執った。

1868年、彼はフランス人文院の会員に選出され、人文関連の定期刊行物である「ラ・ルヴュー・コンテンポラン」と「ジュルナル・デ・エコノミステ」に寄稿した。彼は1871年コレージュ・ド・フランスアンリ・ボードリアールの跡を継いで経済史を担当し、その後も経済統計学、地理学、歴史学の部長を務めた。その後、フランス国立工芸院エコール・リーブル・デ・スィヤーンス・ポリティーク(自由政治科学学院)の教授に就任し、多くの経済地理学の著書を上梓した。

コレージュ・ド・フランスにて
(撮影者・年代不明)

全国教育評議会の会員で、パリ地理学会の名誉会長でもある彼は、1872年の小中学校における地理学教育改革を推進したが、1880年代に起きたフランスの大学における地理学発展運動には関与しなかった。しかし、 彼をこのような次元に限定することはできない。彼の地理に関する思想は独創的であり、現代文学よりも独自性がある。彼の理論によれば、人間は自分自身の運命の創造者であり、自然は科学と同じくらい強力な道具を与えられた人間が経済的調和を維持するために支配できる道具に過ぎない。政治経済学の分野では、労働と労働者階級、フランスの人口に関する彼の研究は今日でも関心を持たれている。彼はレオン・ワルラスとエコール・ド・ローザンヌ(のちのローザンヌ大学)のおもな論争相手であった。彼は1876年にフランスで初めて出版された部門別地図帳の著者となった。彼は1894年スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選出され、1903年からはコレージュ・ド・フランスの校長に就任し、その死まで任にあたった。

私生活では彼はナタリー・ウォロゥスカ(Nathalie Wolowska)と結婚した[4]。経済学者のルイ・ウォロゥスキーはいとこにあたる。ルイの娘であるファニー(Fanny)は 二輪・四輪車の競技者であるレオンス・ジラルドと結婚している。彼は1911年7月10日にパリのコレージュ・ド・フランスの自宅で死去した[5]。彼はモンパルナス墓地の17区に埋葬されている[6]

著書

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コレージュ・ド・フランスにて
(撮影者・年代不明)

脚注

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  1. ^ Sa nécrologie sur le site Persée emploie le nom de « lycée Napoléon » qui a été utilisé de 1805 à 1814 et de 1852 à 1870.
  2. ^ André Chervel, Les agrégés de l'enseignement secondaire. Répertoire 1809-1950, http://rhe.ish-lyon.cnrs.fr/?q=agregsecondaire_laureats 
  3. ^ Cf. sa thèse secondaire sur le site du SUDOC : De pecuniis publicis : quomodo apud Romanos quarto post Christum saeculo ordinarentur (Des finances publiques : comment elles s'organisaient chez les Romains au quatrième siècle après Jésus-Christ)
  4. ^ Cf. site Calames ; mariage peut-être en 1859.
  5. ^ Archives de Paris 5e, acte de décès no 1551, année 1911 (vue 25/31)
  6. ^ Registre journalier d'inhumation de Paris Montparnasse de 1911, en date du 13 juillet (page 29/31)

外部リンク

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