エアハルト・ミルヒ

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エアハルト・ミルヒ
Erhard Milch
1942年
生誕 1892年3月30日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ヴィルヘルムスハーフェン
死没 (1972-01-15) 1972年1月15日(79歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州 ヴッパータール
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ドイツ国防軍空軍
最終階級 元帥
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エアハルト・アルフレート・リヒャルト・オスカー・ミルヒ: Erhard Alfred Richard oskar Milch[1]1892年3月30日 - 1972年1月15日)は、ドイツ空軍軍人。最終階級は空軍元帥(Generalfeldmarschall)。騎士鉄十字章受章。

ドイツ航空省次官を務め、ドイツ空軍の再建に尽力し、1941年からは航空機総監となり空軍航空機の生産・開発を指揮した。戦後、ニュルンベルク継続裁判で終身禁固刑となったが、1954年に釈放された。その後は経営コンサルタントの仕事をした。

経歴[編集]

1934年のエアハルト・ミルヒ

1892年3月30日、ヴィルヘルムスハーフェンに海軍薬剤師アントン・ミルヒ(Anton Milch)とその妻クララ(Klara)の息子として生まれる。父は1890年代に海軍を除隊し、ゲルゼンキルヒェンで薬剤師をしていた。父のアントンはユダヤ系だと言われる(後述[1]

1910年アビトゥーアに合格後、陸軍に入隊し、将校としての訓練を受けた。1911年東プロイセン歩兵砲第1連隊の少尉に任官[1]。早くから飛行機に興味を持っていたが、第一次世界大戦勃発時は歩兵砲第6連隊第2予備大隊の副官だった。1915年7月から航空偵察兵としての教育を受けて航空部隊に配属され、一級鉄十字章を受章。1916年晩秋に中尉に昇進し、クールラントの航空学校付副官となる[2]第一次世界大戦末期に大尉に昇進し、第6戦闘航空団司令官となる。

1934年のエアハルト・ミルヒ

終戦後、非正規軍である「航空志願兵第412部隊」の隊長となり、ドイツ東部でポーランドとの国境紛争に従軍。1920年まで「ケーニヒスベルク航空警察隊」の隊長を務める。ヴェルサイユ条約で航空警察が禁止されると、警察を辞めてダンツィヒで航空郵便業を開業する。1920年代半ばからは設立間もないルフトハンザドイツ航空に勤務し、その重役となる。この頃に社交界で当時ナチ党国会議員だったヘルマン・ゲーリングと知り合った。その縁で1933年にナチ党が政権を獲得すると、ゲーリングに請われてドイツ航空省次官に就任し、ドイツ空軍建設に尽力した[3]

ニュルンベルク・ナチ党党大会にて。左からミルヒ、カイテルブラウヒッチュレーダーヴァイクらと(1938年)

第二次世界大戦中の1940年7月、元帥に昇進。1941年からは航空機総監として空軍の装備開発・生産を統括する。エルンスト・ウーデットが自殺したのちは、技術開発を怠ったその失敗を修正するよう命じられ、ミルヒは主に空軍の分野で、アルベルト・シュペーアと共にドイツの軍需生産で中心的役割を果たした。1943年1月、スターリングラードでソ連軍に包囲されていたドイツ第6軍に空から補給するようヒトラーから直接総統命令を受ける。ミルヒは前線に赴いて対策を練ったが、搭乗員も機体も不足していた上、スターリングラードを航続距離内に収める適当な飛行場もなかったため命令を実行できなかった。

その頃がミルヒの出世の最高点であり、1943年に入ると連合軍の空襲が激化してドイツ本国上空の制空権も危うくなり、ミルヒはゲーリングの信頼を失った。1944年に入って連合軍のドイツ都市への大空襲が行われると、軍用機生産のほとんどを占めていた戦闘機部門が軍需省に所轄替えされてしまい、ミルヒの失脚は決定的となった。同年8月、軍用機生産は軍需省の管轄になり、ミルヒは名目上シュペーアの次官とされたが、実権を完全に失った。

アルベルト・シュペーアウィリー・メッサーシュミットと(1944年5月)

戦後ニュルンベルク継続裁判で起訴されたが(エアハルト・ミルヒ裁判)、ダッハウ強制収容所での人体実験を知っていたことは当時は明確にされなかったので、この点では無罪とされた。しかし兵器生産のため外国人に強制労働させたという罪状で、1947年4月に終身禁固刑の判決を受けた。1951年に獄中での精神不安定により恩赦を受けて懲役15年に減刑され、1954年に出獄した。その後は1972年にヴッパータールで死去するまで、経営コンサルタントの仕事をしていたという。

出自に関する論争[編集]

ニュルンベルクの獄中のエアハルト・ミルヒ(左)。右はニュルンベルク継続裁判で弁護を担当した弟・ヴェルナー

1933年にミルヒがゲーリングにより航空省次官に任命されたとき、ミルヒの母クララはキリスト教に改宗したユダヤ人アントンと結婚して彼を産んだという噂が広まった。ミルヒはこれを否定し、ゲーリングもこの主張を受け入れて関係する記録を改竄したという。1946年のニュルンベルク裁判でミルヒが証人として出廷した際に作成された身上書でも、ミルヒは自分が母の婚外子であると主張している。

実際にミルヒがニュルンベルク法に定めるところの「ユダヤ人との混血」であるか否かは、現在も歴史研究の対象となっている。元帥という最高位に上ったミルヒはじめ、ドイツ軍に多くのユダヤ人がいたと主張しているのはアメリカの歴史家ブライアン・マーク・リッグであるが[4]、彼は1990年代に行ったインタビューやドイツ連邦アーカイブにある記録を基にこの説を唱えた。しかしリッグもミルヒの出生記録を発見できたわけではない。おそらくそれはもはや存在していない可能性が極めて高く、仮にミルヒが実際にユダヤ人だったとすれば、その記録を抹消あるいは改竄したはずである。

「ミルヒはユダヤ人との混血である」という噂は当時かなり広まっており、たとえば自身がユダヤ人である作家ヴィクトル・クレンペラーde:Victor Klemperer)は、1936年10月18日の日記に次のように記している。

「それとマルタが、空軍のミルヒ将軍はアーリア人の母とユダヤ人の父を持つという報せを持ってきた。彼自身は母はアーリア人との婚外交渉で自分をもうけたと主張しているそうだ」

キャリア[編集]

階級[編集]

軍の階級は以下の通り[5]

勲章[編集]

主な受勲は以下の通り[5]

勲一等瑞宝章[6](1937年11月8日)

脚注[編集]

  1. ^ a b c Dixon 2009, p. 164.
  2. ^ 当時の部下にのちの作家クルト・トゥホルスキーがいる。
  3. ^ キレン 1973, p. 80.
  4. ^ Bryan Mark Rigg, Hitler's Jewish Soldiers: The Untold Story of Nazi Racial Laws and Men of Jewish Descent in the German Military, University Press of Kansas (2002), ISBN 0700611789.
  5. ^ a b Dixon 2009, p. 163.
  6. ^ 独国外務大臣男爵「フォン、ノイラート」外三十三名叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113228200 

参考文献[編集]

  • キレン, ジョン 著、内藤一郎 訳『鉄十字の翼 ドイツ空軍 1914-1945早川書房、1973年。ASIN B000J9JT8Q 
  • Dixon, Jeremy (2009) (英語). Luftwaffe Generals The Knight's Cross Holders 1939-1945. Schiffer Publishing Ltd. ISBN 978-0764332432