コンテンツにスキップ

アンヌ・ダランソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンヌ・ダランソン
Anne d'Alençon
アンヌ・ダランソン(マクリーノ・ダルバ作)

出生 (1492-10-30) 1492年10月30日
フランス王国アランソン
死去 (1562-10-18) 1562年10月18日(69歳没)
モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート
埋葬 モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
配偶者 モンフェッラート侯グリエルモ9世
子女 マリーア
マルゲリータ
ボニファーチョ4世
家名 ヴァロワ=アランソン家
父親 アランソン公ルネ
母親 マルグリット・ド・ロレーヌ
テンプレートを表示

アンヌ・ダランソン(Anne d'Alençon, 1492年10月30日 - 1562年10月18日)は、イタリアモンフェッラート侯グリエルモ9世の妃。イタリア語アンナ・ダレンソン(Anna d'Alençon)。

生涯

[編集]

ヴァロワ家の分家アランソン家の当主アランソン公ルネと、ヴォーデモン伯フェリー2世の娘でロレーヌ公ルネ2世の妹であるマルグリット・ド・ロレーヌの次女として生まれる。アンヌが誕生して2日後に父が死去した。

1501年にグリエルモと婚約し、1508年10月にブロワの聖ソヴール教会で結婚した。2人の間には3子が生まれた。

1517年、長女マリーアがマントヴァフェデリーコ2世・ゴンザーガイザベラ・デステの子)と婚約した。この結婚はのちに、マリーアがフェデリーコの愛妾イザベッラ・ボスチェッティを毒殺しようとしたと夫に訴えられ、解消された。

1518年にグリエルモが没し、幼いボニファチオが侯位を継いだ。アンヌは、息子の突然の事故死(1530年)まで摂政を務めたが、新しい侯に亡夫の弟ジョヴァンニ・ジョルジオがカザーレ司教から還俗して即位したため引退した。

ボニファチオが死んだことで、再びフェデリーコはマリーアと結婚することを考え始めた。1530年にマリーアは若くして死んだため、その妹マルゲリータに結婚を申し込んだ。アンヌはゴンザーガ家と縁続きになることを重要視し、1531年にマルゲリータはフェデリーコと結婚した。

1533年、ジョヴァンニ・ジョルジオが庶出の男子を残したのみで死んだ。一侯国の継承問題にもかかわらず、ハプスブルク家ゴンザーガ家サルッツォ侯国サヴォイア家がそれぞれ侯位を請求することになった。実質的には、モンフェッラート侯国はスペインの支配下に入った。1536年、神聖ローマ皇帝カール5世は、マルゲリータ・パレオロゴとその夫フェデリーコ2世ゴンザーガを侯国の支配者として認めた。このため、アンヌが娘夫婦の名代としてモンフェッラート侯国の実質的な支配者となった。1540年にフェデリーコがマルミローロで死に、7歳の息子フランチェスコがモンフェッラート侯位とマントヴァ公位を継いだ。マルゲリータ・パレオロゴは、夫の弟エルコレ・ゴンザーガ枢機卿とともに摂政となった。

アンヌは公の場から引退すると、カザーレ・モンフェッラート(現在のイタリア、ピエモンテ州の町)の彼女の宮殿に隣接した、ドミニコ会派である「シエナのカタリーナ姉妹修道院」に入った。

アランソン家の遺産相続

[編集]

1525年、アランソン公シャルル4世が早世した。シャルル4世と妻マルグリット・ド・ヴァロワ(フランス王フランソワ1世の姉、再婚してアンリ4世の母ジャンヌ・ダルブレをもうける)との間には子がなかったため、私的財産がシャルルの妹たち、アンヌと姉フランソワーズ(アンリ4世の祖父ヴァンドーム公シャルルの妻)に残された。アンヌは、このアランソン家の遺産を孫娘イザベッラ・ゴンザーガ(マルゲリータとフェデリーコの長女)に相続させた。イザベッラがのちにこの相続を放棄したため、マルゲリータは三男ルドヴィーコ(のちにヌヴェール公となり、ゴンザーガ=ヌヴェール家の祖となる)に引き継がせた。