高田文之

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MR.デーブマンから転送)

高田 文之(たかだ ふみゆき、1946年(昭和21年)10月6日[1] - 2013年(平成25年)1月24日[注 1])は、北海道を中心に活動していたローカルタレント歌手。本名での活動も一部行っていたが、一般的には愛称「Mr.デーブマン(ミスターデーブマン)」で知られている[注 2]

略歴・人物[編集]

東洋大学社会学部応用社会学科社会心理学専攻卒業[1]。身長168cm、体重80kg[1]。 元々は札幌有線放送会社の社員だったが、番組への出演をきっかけに地元放送局HBC(北海道放送) へ出向。その後、会社を辞して[注 3][2]タレントに転向した。

愛称のデーブマンとは、その体型から来たものとも、デビルマン(小悪魔)に由来する意味も含まれているとも言われている[3]

1970年代から1980年代にかけて、HBCラジオを中心として北海道内のラジオ・テレビ番組を長年担当し、一時代を築いた。

1981年にHBCラジオから降板後は、出演していた7年間に休みが1日もなかった反動から、一時海外を76都市ほど渡り歩いたこともあったという。

2012年2月2日、HBCラジオ「山ちゃん美香の朝ドキッ!」で開局60周年企画「HBCラジオアーカイブ・伝説のラジオ」にゲストとして招かれ、これがHBCラジオで放送された最後の声となった[4]

2013年1月24日、札幌市の自宅で脳梗塞により死亡しているのを、訪ねてきた知人により発見された。享年68(満66歳没)[5]

同年3月8日、高田が行きつけだった西区の飲食店で「偲ぶ会」が開かれ、元STV(札幌テレビ放送)工藤準基、元HTB(北海道テレビ放送)長谷川宏和ら、同時期に活躍したアナウンサーや高田を慕う後輩をはじめ、小橋亜樹など共演タレントや関係者が一堂に会し、故人の思い出を語りあいながら、高田も大好きだったカラオケ大会が盛大に行われた[6]

出演した主な番組・CM[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

  • ベストテンほっかいどう(HBCラジオ、1973年 - 1981年) - 1973年から1975年までは女性パーソナリティ・寺内真理とのコンビ“マリ&デーブマン”が人気だった。1975年から1981年の番組降板までは単独で担当。
  • ダイナミックサタデー(HBCラジオ、1981年 - 1985年)

CM[編集]

レコード[編集]

  • 旅の終り - 北海道ユースホステルの歌 - (1979年、CBSソニー)※「高田文之」名義

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 遺体発見日
  2. ^ このニックネームを付けたのは、当時HBCラジオの「ベストテンほっかいどう」のディレクターだった新居一芳(のちの作曲家・彩木雅夫)であることを本人が「山ちゃん美香の朝ドキッ!(2012年2月2日)」の番組中に証言している。
  3. ^ 会社を辞めるきっかけになった経緯を北海道新聞元・論説委員の杉江良之が紹介している。青江三奈が1968年にリリースしたご当地ソング「札幌ブルース」の歌詞(作詞:川内康範)が、ただ札幌市内の名所を並べただけの安易なものと番組内で苦言を呈したところ、当時、道新の記者だった杉江が記事にした。すると、それをきっかけに高田に対してレコード会社から猛烈な圧力がかかり、辞職に追い込まれた。その事を知ったHBCラジオのディレクター・新居が意気に感じ、ラジオパーソナリティーとしてHBCに本格的に起用したのだという。

出典[編集]

  1. ^ a b c [1]
  2. ^ 横田昌樹 - タイムラインの写真”. Facebook (2013年1月28日). 2014年4月9日閲覧。
  3. ^ 北海道放送三十年(北海道放送社史編纂委員会 編、1982年9月発行)372頁
  4. ^ 2月2日「Mr.デーブマンさん登場!」”. 山ちゃん美香の朝ドキッ! / 朝ドキッSHOT (2012年2月2日). 2014年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月9日閲覧。
  5. ^ 立花幹彦 (2013年1月28日). “「デーブマン」こと高田文之さんを偲ぶ”. 道新スタッフブログ(北海道新聞). 2014年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月10日閲覧。
  6. ^ 立花幹彦 (2013年3月11日). “デーブマンの思い出尽きぬ 〜 アナウンサー仲間が「偲ぶ会」〜”. 道新スタッフブログ(北海道新聞). 2014年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月10日閲覧。