内藤政陽

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内藤政陽
時代 江戸時代中期
生誕 元文4年5月19日1739年6月24日
死没 天明元年閏5月21日1781年7月12日
改名 億助(幼名)、政陽
戒名 悳敬院法山居士
墓所 神奈川県鎌倉市光明寺
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
日向延岡藩
氏族 内藤氏
父母 内藤政里
内藤政樹
兄弟 政陽政苗
岡部長著
根岸氏
政韶政峻内藤政脩正室
政脩
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内藤 政陽(ないとう まさあき)は、江戸時代中期の大名日向国延岡藩2代藩主。官位従五位下能登守。延岡藩内藤家宗家7代。

生涯

元文4年(1739年)5月19日、上野国安中藩2代藩主・内藤政里の次男として誕生。延岡藩初代藩主である内藤政樹の実子・政尭宝暦4年(1754年)に早世したため、養子として迎えられた。宝暦6年(1756年)10月21日、政樹が隠居したため家督を継いだ。

藩の財政悪化のため、家臣の半知借上や俸禄制の改定を行ったが、明和3年(1766年)の時点で借金は10万5563両という莫大なものであり、焼け石に水程度の改革でしかなかった。

明和5年(1768年)、本小路「川手口」(現社会教育センター)に学問所(学寮)と武芸所(武寮)を設立し、学寮では、朱子学の山本与兵衛を監督、白瀬道順を講師、佐久間左膳を儒学執行に命じた。全国的に見ても比較的早い時期(全国280藩中50番目位)、日向諸藩では最初の藩校開設である。学寮は嘉永3年(1850年)に「廣業館」と改称された。

明和7年(1770年)10月29日、家督を婿養子・政脩に譲って隠居する。

天明元年(1781年)閏5月24日、江戸で死去した。享年43。

系譜