コンテンツにスキップ

シリル・デプレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。SF-R (会話 | 投稿記録) による 2023年6月18日 (日) 03:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

2009年

シリル・デプレCyril Despres 1974年1月24日 - ) は、フランスのラリーレイド選手。

経歴

2013年ダカール
2014年ヤマハ加入時

レストラン経営者の両親の下に生まれる。フランス人トライアルライダーのパスカル・クチュリエに憧れ、13歳の時両親に内緒でパリヘ行き、バイクを購入した。10年間トライアルを経験した後に1998年にエンデューロデビューし、その年にフランスのエンデューロ王者となる[1]

2000年にホンダのバイクでダカール・ラリーにデビューし16位で完走。この時軍資金を稼ぐため、友人のミシェル・ガウとともに、ダカール・ラリーのルートが描かれたラベルの期間限定ワインを6000本売った[2]

2001年はBMW、2002年にKTMへと転じ、以降2013年までKTMで戦う。同じKTMでスペイン人のマルク・コマと激闘を繰り広げ、00年代〜2010年代前半の二輪部門を彩どった。デプレは2005年、2007年、2010年、2012年、2013年の通算5回の総合優勝を果たした。これはコマ、そして同じフランス人のシリル・ヌヴーに比肩する、歴代2位タイの記録である。特に2011年は、わずか15分4秒差でコマが勝利する激闘となった。

2014年はヤマハから参戦し総合4位[3]。これが最後の二輪挑戦となった。翌2015年にコマも優勝してダカールを去ったことで、二輪部門のデプレ・コマによる支配の時代は終わりを迎え、群雄割拠の時代へと突入する。

2015年にデプレは、四輪でダカールに復帰したプジョー・スポールへと加入。カルロス・サインツセバスチャン・ローブステファン・ペテランセルといった豪華な同僚たちと轡を並べ、二輪駆動2008 DKR/3008 DKRで戦ったが、2017年に総合3位に入った以外は結果を残せなかった。ステージ勝利は2017年、2018年に1度ずつ記録できたが、ペテランセルのサポートに回る場面が多かった。

2015年ダカールに向けてのプジョー加入時(中央)
2016年シルクウェイ・ラリー

一方で2016-2017年とダカールを凌ぐ距離を走ったシルクウェイ・ラリーでは、プジョーで連覇を果たしている。

ナビは2015年は元二輪ライダーで、三菱・パジェロ軍団の栄光を支えたジル・ピカード、2016〜2018年は元ライバルライダーでASO(ダカールの運営)の要職も歴任し、ラリー・デュ・モロッコの運営会社も買収したデビット・カステラであった[4]

2019年はプジョーが撤退したため、サインツ・とペテランセルとともにX-raidでMINI・JCWバギーをドライブ。総合5位完走。この時ナビがペテランセルの相棒だったジャン=ポール・コトレへと代わっている。またアブダビ・デザート・チャレンジへはスペイン人でナニ・ロマとも組んだダニエル・オリベラスをナビとした。デプレはアンドラ公国在住でカタルーニャ語が喋れるため、オリベラスとのコミュニケーションは不自由しなかったという[5]

2020年はレッドブル・オフロードチームUSAから(SxS)部門で参戦。ナビはスイス人冒険家のマイク・ホーン。TOYOTA GAZOO Racingのダカール活動にも関わっているオーバードライブ・レーシングが開発した、軽量プロトタイプのOT3バギーをドライブ。後輩たちの指導に周り、第7ステージでマシントラブルに遭ったミッチェル・ガスリーJr.に完走できるようにと、デプレとホーンはエンジンを譲ってリタイア。ガスリーJr.は期待に応え、その後ステージ2勝を挙げて完走した[6]

2021年はPHスポールの支援を受けつつ、将来水素自動車化での参戦を目論む『GEN Zプロジェクト』に参画。情報収集するために、かつて使っていたディーゼルエンジンのプジョー・3008 DKRにデータロガーを搭載してドライブした[7]。2021年は10位で完走した。

2022年はマシンはそのまま、ナビはブライアン・バラグワナスの元ナビで南アフリカ出身の女性のテイ・ペリーに交代。デプレはフランス語話者、ペリーは英語話者であったため、コミュニケーションは少々難儀したという[8]。チームはレベリオン・レーシングとのジョイント体制になった。19位で完走した。

2023年ダカールは参戦していない。

脚注