小倉尚
表示
小倉 尚 おぐら ひさし | |
---|---|
生誕 |
1892年2月25日 日本、茨城県 |
死没 |
1943年9月10日(51歳没) 台湾 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913 - 1943 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日[1] - 1943年(昭和18年)9月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
茨城県出身。1913年(大正2年)5月26日に陸軍士官学校(25期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第一大隊付となる[2]。1916年(大正5年)11月30日に陸軍砲工学校(22期)高等科を卒業[3]し、更に員外学生として在学。1917年(大正6年)8月6日に工兵中尉に昇進[4]、1920年(大正9年)7月10日には東京帝国大学工学部建築学科を卒業した[5]。
1922年(大正11年)8月15日に工兵大尉に昇進[6]し陸軍工兵学校教官、陸軍技術本部部員等を経て、1928年(昭和3年)8月10日工兵少佐に昇進[7]後、陸軍省兵器局課員等を経て、1932年(昭和7年)8月8日工兵中佐に昇進[8]。更に、ドイツ駐在官等を経て、陸軍築城部本部部員在任中の1937年(昭和12年)3月1日に工兵大佐に昇進[9]。
その後、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将に昇進[10]し高雄要塞司令官に就任。更に北支那方面軍兵器部長を歴任し、1942年(昭和17年)12月1日に陸軍中将[1]に昇進後、翌2日に陸地測量部長に就任した。[要出典]
1943年9月10日、台湾の東海岸にて事故死した。[要出典]
栄典
- 1914年(大正3年)3月20日 - 正八位[11]
- 1917年(大正6年)10月1日 - 従七位[12]
- 1922年(大正11年)9月11日 - 正七位[13]
- 1926年(大正15年)8月26日 - 勲六等瑞宝章[14]
- 1927年(昭和2年)10月1日 - 従六位[15]
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- 1937年(昭和12年)5月1日 - 従五位[20]
- 1939年(昭和14年)8月15日 - 正五位[21]
- 1940年(昭和15年)
- 8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[22]
- 10月15日 - 勲三等瑞宝章[23]
著作
- 小倉尚 講述『工場防空の概要』工場防護團本部、大阪、1937年6月1日 。
脚注
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』186頁。
- ^ 『官報』第425号、大正2年12月26日。
- ^ 『官報』第1303号、大正5年12月5日。
- ^ 『官報』第1505号、大正6年8月7日。
- ^ 『官報』第2398号、大正9年7月29日。
- ^ 『官報』第3013号、大正11年8月16日。
- ^ 『官報』第488号、昭和3年8月11日。
- ^ 『官報』第1683号、昭和7年8月9日。
- ^ 『官報』第3046号、昭和12年3月2日。
- ^ 『官報』第3772号、昭和14年8月2日。
- ^ 『官報』第492号、大正3年3月23日。
- ^ 『官報』第1551号、大正6年10月2日。
- ^ 『官報』第3036号、大正11年9月13日。
- ^ 『官報』第4208号、大正15年9月2日。
- ^ 『官報』第281号、昭和2年12月5日。
- ^ 『官報』第1691号、昭和7年8月18日。
- ^ 『官報』第1709号、昭和7年9月8日。
- ^ 『官報』第2822号附録、昭和11年6月1日。
- ^ 『官報』第2602号附録、昭和10年9月3日。
- ^ 『官報』第3102号、昭和12年5月10日。
- ^ 『官報』第3858号、昭和14年11月14日。
- ^ 『官報』第4438号付録、昭和16年10月23日。
- ^ 『官報』第4136号、昭和15年10月19日。
参考文献
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
軍職 | ||
---|---|---|
先代 林義秀 |
高雄要塞司令官 第3代:1939年8月1日 - 1940年10月22日 |
次代 桂朝彦 |
先代 下田宣力 |
陸地測量部長 第17代:1942年12月2日 - 1943年9月10日 |
次代 大前憲三郎 |