藤原遠量
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 遠重 |
官位 | 従四位上、大蔵卿 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 | 父:藤原師輔、母:藤原顕忠の娘 |
兄弟 |
伊尹、兼通、安子、兼家、遠量、忠君、遠基、遠度、登子、源高明室、高光、 愛宮、為光、尋禅、深覚、公季、怤子、繁子、源重信室 |
妻 | 藤原有相の娘、藤原国光の娘 |
子 | 相尹、覚空、叡観、藤原道兼正室、宰相内侍(藤原道信正室) |
藤原 遠量(ふじわら の とおかず)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原師輔の四男。官位は従四位上・大蔵卿。
経歴
天徳4年(960年)正月に遠量は従五位上に叙せられたが、同時に伊尹・兼通・兼家・忠君ら兄弟も叙位を受ける。兄弟5人が同時に叙位を受けることは前代未聞であり、父の右大臣・藤原師輔は「若是栄華之極哉」と歓喜している[1]。その後、右馬頭を経て、康保4年(967年)には冷泉天皇の五位蔵人に補せられた。
備前守を経て、円融朝の天禄3年12月(973年2月)には昇殿を聴される。その後の除目で大蔵卿に任ぜられ、天禄4年(973年)3月の石清水八幡宮臨時祭では祭使を務めた。また、宮内卿も務めたという[要出典]。極位は従四位上であった。
官歴
- 時期不詳:従五位下
- 天徳4年(960年) 正月7日:従五位上[2]
- 時期不詳:右馬頭
- 康保4年(967年) 11月12日:五位蔵人、右馬頭如元[3]
- 安和2年(969年) 8月13日:去蔵人(譲位)[3]
- 時期不詳:備前守[4]
- 天禄3年(972年) 12月25日:昇殿[4]
- 天禄4年(973年) 日付不詳:大蔵卿。3月27日:石清水八幡宮臨時祭使[5]
- 時期不詳:従四位上[6]
系譜
注記のないものは『尊卑分脈』による。