岩城秀隆
表示
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 延宝元年(1673年)[1] |
死没 | 享保3年10月25日(1718年11月17日)[2] |
別名 | 通称:采女[2] |
戒名 | 常心院知観道光[1][2] |
墓所 | 秋田県由利本荘市岩城(旧由利郡岩城町)の竜門寺[1] |
官位 | 従五位下・伊予守[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 出羽亀田藩主 |
氏族 | 岩城氏 |
父母 | 父:岩城景隆、母:小笠原長次娘[1][2] |
妻 |
正室:松平忠充娘[2](後離縁) 継室:齢松院(内藤忠政娘)[1] |
子 |
千次郎[2]、栄次郎[2]、女子 養子:隆韶(伊達村興子) |
岩城 秀隆(いわき ひでたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国亀田藩4代藩主。
延宝元年(1673年)、3代藩主・岩城重隆の長男・景隆の長男として生まれる。景隆は本来、家督を継ぐ身であったが、重隆と対立して廃嫡された上に幽閉され、元禄9年(1696年)に死去した。
天和3年(1683年)5月6日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する[2]。宝永元年(1704年)2月10日、祖父・重隆の隠居により家督を継いで4代藩主となる[1]。宝永6年(1709年)4月15日、従五位下・伊予守に叙任された[1]。正徳5年(1715年)8月28日、駿府加番に任じられる[1]。
享保3年(1718年)10月25日、亀田で死去した。享年46。2人の男子は早世していたため、末期養子として隆韶を迎えた。
当初、秀隆は岩城家17代当主・常隆の子孫(岩谷堂伊達家)の伊達村隆を養子に望んだ。しかし村隆の本家の、仙台藩伊達家との交渉はまとまらず、秋田藩の佐竹家と養子縁組の交渉に及んだ。これもまとまらず、再度伊達家との交渉に臨んだ。その結果、仙台藩主・伊達吉村の弟・村興の子の隆韶を仮養子に指定することに成功し、死去に伴い末期養子に認められた。
系譜
父母
正室、継室
子女
養子
脚注
出典
- 『亀田岩城家譜』
- 『寛政重修諸家譜』