板倉勝澄
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板倉勝澄像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保4年6月28日(1719年8月13日) |
死没 | 明和6年5月3日(1769年6月6日) |
改名 | 新平(幼名)、勝澄、源承(法号) |
戒名 | 円乗院殿無山元承大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺 |
官位 | 従五位下周防守、相模守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 伊勢亀山藩主、備中松山藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 板倉重治、村井氏 |
妻 |
戸田忠余娘[1] 根津氏、植原氏、福村氏 |
子 |
勝武、戸田光邦、勝従、勝行、勝政、 勝峯、伊奈忠尊、勝房、前田利尚正室、 堀直泰正室、巨勢利喬正室、 菅沼定前正室、本多忠盈正室ら |
板倉 勝澄(いたくら かつずみ)は、伊勢国亀山藩2代藩主、備中国松山藩初代藩主。板倉家宗家7代。
生涯
伊勢亀山藩初代藩主・板倉重治の長男。享保9年(1724年)閏4月、家督を継ぐ。病がちで、幕府からは、東海道の要衝、亀山の統治に堪えないと判断され、延享元年(1744年)3月、石川総慶と交代する形で、伊勢亀山から備中松山へ移封される。延享3年(1746年)には松山に学問所を創設し、藩士子弟の教育に努めた。寛延4年(1751年)9月23日、長男の勝武に家督を譲って隠居し、剃髪して源承と号した。明和6年(1769年)5月3日、51歳で死去した。
系譜
脚注
- ^ 元文六年武鑑
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