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ウィリアム・キャヴェンディッシュ (1917-1944)

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ハーティントン侯爵
ウィリアム・キャヴェンディッシュ
William Cavendish,
Marquess of Hartington
個人情報
生誕William John Robert Cavendish
(1917-12-10) 1917年12月10日
イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没1944年9月9日(1944-09-09)(26歳没)
ベルギーの旗 ベルギー ヘッペン英語版
死因戦死
政党保守党
配偶者
親戚第11代デヴォンシャー公爵アンドリュー・キャヴェンディッシュ英語版(弟)
第10代デヴォンシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュ
メアリー・ガスコイン=セシル英語版
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
宗教聖公会
兵役経験
所属組織 イギリス陸軍
最終階級少佐(Major)
部隊近衛機甲師団英語版コールドストリームガーズ
戦闘第二次世界大戦

ハーティントン侯爵ウィリアム・ジョン・ロバート・キャヴェンディッシュ(William John Robert Cavendish, Marquess of Hartington、1917年12月10日 - 1944年9月9日)は、イギリスの政治家、イギリス陸軍士官である。第10代デヴォンシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュの長男であり、その後継者であった。第二次世界大戦中の1944年9月9日、コールドストリームガーズの中隊を率いてネーデルラントで戦っている最中に戦死した。

若年期と教育

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エドワード・キャヴェンディッシュは、1917年12月10日にイギリス・ロンドンで生まれた[1]。第10代デヴォンシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュとその妻メアリー・ガスコイン=セシル英語版の長男であり、デヴォンシャー公爵の後継者の儀礼称号として「ハーティントン侯爵」と称した。イートン・カレッジケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教育を受けた[1]

政治家としてのキャリア

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保守党に所属し、1944年2月18日に行われた西ダービーシャー選挙区英語版の補欠選挙で、戦時連合の公式候補者に選ばれた。対立候補は、労働党を辞めて無所属で立候補したチャールズ・フレデリック・ホワイト・ジュニア英語版だった。戦時下のため、戦時連合以外の政党的な選挙活動は禁止されていたが、ホワイトは無所属であることからその制限を逃れられた。西ダービシャー選挙区では、1923年以来、保守党が政権を握っていた。選挙戦では、57.7%対41.5%でホワイトに破れた[2]

私生活

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1944年5月6日、アメリカ出身のキャスリーン・アグネス・ケネディと、ロンドンのキングズ・ロードにあるチェルシー・タウン・ホールの登記所で結婚した。

彼女は、元駐英アメリカ大使ジョセフ・P・ケネディ・シニアの娘で[1][3]ジョン・F・ケネディの妹、ロバート・ケネディエドワード・ケネディの姉である。婚姻届には父のデヴォンシャー公爵とキャスリーンの兄のジョセフ・P・ケネディ・ジュニア(当時アメリカ海軍中尉)が署名し、ラトランド公爵英語版が介添人を務めた[4][5]

キャスリーンの母親のローズは、ケネディ家カトリック、デヴォンシャー公爵家は英国国教会であり、どちらの教義でも相手の信仰に合わせて結婚することができないため、2人の結婚に当初は反対していた。その後、二人にとって困難であることを承知の上で、この結婚を承認した[6][7]

軍歴と死去

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第二次世界大戦中、イギリス陸軍コールドストリームガーズ連隊の士官として任命を受けた。1944年8月、ナチス・ドイツが侵攻した西ヨーロッパの解放のため、ハーティントンの所属するコールドストリームガーズ第5大隊は、近衛機甲師団英語版の一部として、フランスで激しい戦闘に従事した。1944年9月初旬、ソンム川を渡り、ブリュッセルに向かって東進し、いち早くブリュッセルを解放した。現地の住民が連合軍を支援してくれたことについて、ハーティントン卿は妻に宛てて、次のように書いている。「この数年間、安全で快適な生活を送ってきたのことは、(私には)とても勿体ないことでした.....。私はずっと感激で胸がいっぱいになり、あなたがここにいてくれればいいと強く思いました。このような経験をできる人はほとんどいませんし、ぜひあなたと分かち合いたいと思っています[8]

1944年9月9日、ドイツの武装親衛隊(Waffen-SS)が占拠するベルギーの町ヘッペン英語版を攻略中に、狙撃手に撃たれて亡くなった。26歳だった[9][10][11][12][13]。その遺体は、遺族の了解のもとに、戦死した場所の近くに埋葬された。ハーティントン卿とキャスリーンの間には子供がいなかったため、ハーティントン卿の弟のアンドリュー英語版がデヴォンシャー公爵の相続人となった。

脚注

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  1. ^ a b c “Obituary: Major Lord Hartington”. The Times: p. 6. (19 September 1944) 
  2. ^ LIFE, 13 March 1944, pp 28–29.
  3. ^ The Kennedy family - Photos - 8 of 20 - POLITICO.com”. 13 September 2016閲覧。
  4. ^ “Marriages: Captain the Lord Hartington and K. Kennedy”. The Times: p. 6. (8 May 1944) 
  5. ^ “The Cavendishes & the Kennedys”. Time. (15 May 1944). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,850493-2,00.html 10 August 2008閲覧。 
  6. ^ Kathleen put love before religion”. The Montreal Gazette (4 August 1970). 2021年5月20日閲覧。
  7. ^ Spencer, Charles (January 2010). “Enemies of the Estate”. Vanity Fair. http://www.vanityfair.com/style/features/2010/01/english-aristocracy-201001 2013年5月20日閲覧。 
  8. ^ Bailey, C. (2007). Black Diamonds: The Rise and Fall of an English Dynasty, p. 375. London: Penguin. ISBN 978-0-670-91542-2.
  9. ^ The Cavendish Family- Dukes of Devonshire”. 13 September 2016閲覧。
  10. ^ 'HARTINGTON, Marquess of', Who Was Who, A & C Black, an imprint of Bloomsbury Publishing plc, 1920–2015; online edn, Oxford University Press, 2014 ; online edn, April 2014 accessed 26 Aug 2015
  11. ^ William John Robert Cavendish, Marquess of Hartington (1917–1944) - Genealogy”. Geni. 2021年5月20日閲覧。
  12. ^ Mitford, Deborah (1982). The House: A Portrait of Chatsworth. Macmillan. p. 73 
  13. ^ Spencer Churchill, Randolph; Gilbert, Martin (1977). Winston S. Churchill, Volume 5. Houghton Mifflin. p. 583 

外部リンク

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