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上村幹男

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上村 幹男
生誕 1892年7月8日
日本の旗 日本 山口県
死没 (1946-03-23) 1946年3月23日(53歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912 - 1945
最終階級 陸軍中将
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上村 幹男(うえむら みきお、1892年(明治25年)7月8日[1][2] - 1946年(昭和21年)3月23日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

本籍山口県[1]。陸軍三等主計正上村清治郎の長男として生まれる[1]広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる[1][3]1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業[2][4][5]

陸軍歩兵学校教官を経て、1926年(大正15年)9月から1928年(昭和3年)11月までドイツに駐在した[1]。帰国後、教育総監部付となり、近衛歩兵第4連隊大隊長を経て、1930年(昭和5年)12月から陸大専攻学生となった[1]1931年(昭和6年)11月、陸大教官となり、近衛師団参謀台湾軍参謀、陸大教官、歩兵第76連隊長(1937.8.2 -1938.7.15)などを歴任[1][5]1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任、日中戦争に出征し武漢作戦に参加した[1][2][5]。台湾軍参謀長、第64独立歩兵団長を歴任し、1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進んだ[1][2][5]

太平洋戦争開戦後の1941年12月29日、俘虜情報局長官に就任[1][2][5]1943年(昭和18年)3月11日、第57師団長に親補され満州に駐屯[1][2][5]1945年(昭和20年)3月、第4軍司令官となり[1][5]ソ連軍と交戦を行う中、ハルビンで終戦を迎えシベリア抑留となった[2]1946年(昭和21年)3月、ハバロフスク収容所で自決した[1][2][5]

栄典

親族

  • 弟 上村栄人(陸軍大佐)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、26頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』119頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』308、310頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、571頁。
  5. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』310頁。
  6. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。


先代
無し
俘虜情報局長官
1941年 - 1943年
次代
浜田平中将