大矢馬太郎
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大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治3年6月26日[1]〉 - 1939年〈昭和14年〉[2]7月11日[3][4][5])は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。岩手県盛岡市長。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。旧姓は中村[6]。
経歴
中村俊太郎の伯父として[6]、現在の盛岡市[1]馬場町(馬場小路[4])に生まれる。のち大矢五蔵の養子となり家督を相続する[6]。1888年(明治21年)7月[4]、岩手県中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、盛岡市参事会員を経て、1907年(明治40年)11月、盛岡市長に就任[1]。1910年(明治43年)8月、市長の座を退き、岩手県会議員、岩手県参事会員、盛岡市会議員、同議長などを経て、1916年(大正5年)12月、補欠選挙[7]で貴族院議員に当選し[1]、同年12月26日[8]から1918年(大正7年)9月28日まで在任した[5]。1917年(大正6年)4月、盛岡市会議員に再選し、同議長、岩手県会議員、同議長などを経て[1]、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で岩手県第1区から立憲政友会所属で出馬し、薨去した原敬に代わり補欠当選し[9]、1期務める[3]。1934年(昭和9年)6月、盛岡市長に再選し[1]、2期目在任中に死去[2]。初の盛岡市葬が執り行われた[4]。
ほか、岩手県農工銀行、岩手日報、東北鉄道鉱業、岩手軽便鉄道などの重役を歴任した[6]。
親族
脚注
参考文献
- 『衆議院要覧 下巻』衆議院事務局、1923年 。
- 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 帝国自治協会『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 衆議院事務局 編『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年 。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。
関連項目
- 南昌荘(市長在職中に別荘として使った)