小笠原プロダクション
小笠原プロダクション(おがさわらプロダクション、1923年 設立 - 1926年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、京都の映画製作会社である。子爵小笠原氏の「第七代当主」になるはずだった同家の長男・小笠原明峰が設立し、自ら、および弟(次男)小笠原章二郎の監督作品を製作した。片岡千恵蔵、古川ロッパといったのちのスター俳優を無名時代に起用し、初めて映画に主演させたプロダクションである。
略歴・概要
[編集]1923年、小笠原明峰が23歳で設立した。当時21歳だったすぐ下の弟も「三善英芳」名義で監督として加わった。
「小笠原映画研究所」名義で製作した設立第一作は、明峰が脚本を書き監督した『三色すみれ Love in Idleness』であった。同作の主演には、1912年に片岡仁左衛門が設立した「片岡少年俳優養成所」に9歳で参加した[1]当時20歳の植木正義(「植木進」名義、のちの片岡千恵蔵)を起用した。また当時学生だった古川ロッパ(「古川緑波」名義)を初めて映画に出演させた。
前年1922年に松竹に吸収された大正活映(大活)で栗原トーマスの監督作を撮っていた撮影技師稲見興美が入社、この同社第一作を皮切りに即戦力となって6本を担当した。翌1924年には、栗原トーマスが「栗原喜三郎」名義で1作監督しているが、これが栗原の映画監督としての遺作となった(1926年死去)。
稲見、栗原のように大活から流れてきた者に、装置部の尾崎章太郎、俳優部の鈴木すみ子がいた。俳優部の大辻四郎は「映画芸術協会」から同社に入社したが、その後PCL、日活、東宝、松竹大船撮影所などの名脇役となっていった。天然色活動写真(天活)、国際活映(国活)にいたが、兵役から復員して同社の撮影助手となった円谷英二は、のちにJ.O.スタヂオや東宝を経て円谷プロダクションを創始した。
多くは同社からそのキャリアを始めた。「日本初の女流映画脚本家」として名高い水島あやめに最初に脚本を書かせたのは同社である。のちに妹の入江たか子と「入江ぷろだくしょん」を設立した東坊城恭長、のちに東宝で黒澤明の師匠となる名監督山本嘉次郎や、のちに監督に転向して戦後『血槍富士』(東映、1955年)を撮った巨匠内田吐夢といったのちの映画監督たちは、いずれもその最初のキャリアは同社で、しかも「俳優」としてであった。
1926年には同社は活動を停止した。小笠原明峰26歳のときだった。製作作品は14本、すべてまだ無声映画だった。
所属スタッフ
[編集]- 演出部
- 小笠原明峰
- 三善英芳 (のちに俳優に転向、同社 - 日活太秦撮影所 - 松竹下加茂撮影所 - 東宝映画京都撮影所 - 日活 - 富士映画 - 新東宝 - 東映)
- 水谷登志夫 (俳優部に転向)
- 栗原喜三郎 (大正活映 - ヘンリー小谷映画社 - 同社)
- 脚本部
- 撮影部
- 稲見興美 (大活 - 同社)
- 気賀靖吾 (助手、同社 - 日活京都第二撮影所 - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - 日活多摩川撮影所 - 満映 - 東映東京撮影所)
- 上野幸清
- 円谷英二(助手、天然色活動写真 - 国際活映 - 同社 - 国際活映巣鴨撮影所 - 衣笠映画聯盟 - 松竹下加茂撮影所 - 日活太秦撮影所 - 太秦発声 - J.O.スタヂオ - 東宝映画 - 東宝 - 円谷プロダクション)
- 柴田繁
- 近沢美智夫
- 和田謙三 (助手)
- 装置部
所属キャスト
[編集]- 俳優部
- 植木進 (同社 - マキノ・プロダクション御室撮影所 - 片岡千恵蔵プロダクション - 日活京都撮影所 - 大映京都撮影所 - 東横映画 - 東映)
- 古川緑波 (同社 - 政岡映画社 - PCL - 東宝映画東京撮影所 - 東横映画、新東宝など)
- 東坊城恭長 (のちに監督に転向、同社 - 日活京都第二撮影所 - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - 入江ぷろだくしょん - 新興キネマ - PCL - 東宝映画東京撮影所)
- 北島貞子
- 島静二
- 春日明子 (同社 - 日活大将軍撮影所)
- 花房綾夫 (同社 - 日活太秦撮影所 - 片岡千恵蔵プロダクション - 日活太秦撮影所 - 日活多摩川撮影所 - 大映東京撮影所 - 大映京都撮影所)
- 鈴木すみ子 (大活 - 同社 - 東亜映画等持院撮影所 - 東亜キネマ甲陽撮影所 - 帝国キネマ - マキノ・プロダクション御室撮影所 - 河合映画 - 市川右太衛門プロダクション - 帝国キネマ - 阪東妻三郎プロダクション / 新興キネマ - 東映京都撮影所)
- 原光代 (同社 - 日活大将軍撮影所)
- 平戸延介 (監督に転向して山本嘉次郎、同社 - 東亜キネマ甲陽撮影所 - マキノ・プロダクション東京撮影所 - タカマツ・アズマプロダクション - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - PCL - 東宝)
- 明石久子 (同社 - 日活大将軍撮影所 - 東宝)
- 高島愛子 (同社 - 日活京都第二撮影所 - 日活大将軍撮影所 - タカマツ・アズマプロダクション)
- 内田吐夢 (のちに監督に転向、大活 - 同社 - 牧野教育映画 - 国際活映巣鴨撮影所 - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - 新興キネマ - 日活多摩川撮影所 - 東映)
- 龍田静枝 (同社 - タカマツ・アズマプロダクション - 松竹蒲田撮影所)
- 河井八千代
- 児島武彦 (同社 - マキノ・プロダクション御室撮影所 - 太秦発声)
- 三田文子
- 東勇路 (同社 - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - 日活多摩川撮影所)
- 村田宏 (同社 - 東亜映画等持院撮影所 - 衣笠映画聯盟 - 東亜映画京都撮影所)
- 九十九一子 (同社 - 松竹蒲田撮影所)
- 山野一郎 (同社 - PCL - 東宝映画東京撮影所)
- 大辻四郎 (映画芸術協会 - 同社 - PCL - 日活 - 東宝 - 松竹大船撮影所 - 東京映画 - 日活)
- 花川夏子 (同社 - 松竹蒲田撮影所)
- 福田満州 (同社 - 東亜キネマ甲陽撮影所 - タカマツ・アズマプロダクション - 日活太秦撮影所 - 帝国キネマ太秦撮影所 - 新興キネマ)
- 谷崎十郎 (同社 - 日活大将軍撮影所 - 日活太秦撮影所 - 谷崎プロダクション - マキノ・プロダクション御室撮影所 - 市川右太衛門プロダクション)
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フィルモグラフィ
[編集]- 小笠原映画研究所
- 小笠原プロダクション
- 愛の導き 1923年 監督・脚本小笠原明峰
- 行けロスアンゼルス 1923年 監督小笠原章二郎(三善英芳名義)、脚本小笠原明峰
- 泥棒日記 1924年 監督三善英芳、原作・脚本小笠原明峰
- 吹雪の夜 1924年 監督三善英芳、原作・脚本小笠原明峰
- 風船売りの小母さん 1924年 監督・原作・脚本水谷登志夫、製作小笠原明峰
- 海賊島 1924年 監督・原作小笠原明峰
- 落葉の唄 1924年 監督小笠原明峰
- 久遠の響 1924年 監督栗原トーマス(栗原喜三郎名義)、原作・脚本小笠原明峰
- 水兵の母 1925年 監督小笠原明峰
- 天馬嘶く 1925年 監督三善英芳、脚本指揮小笠原明峰
- 遺言 1925年 監督・原作・脚本小笠原明峰
- 男を磨け 1925年 監督三善英芳、脚本小笠原明峰
- 我れは海の子 1926年 監督・脚本小笠原明峰、共同監督三善英芳