ヴィンセント・ユーマンス
ヴィンセント・ミリー・ユーマンスまたはユーマンズ(Vincent Millie Youmans, 1898年2月27日 ニューヨーク・シティ - 1946年4月5日 コロラド州デンヴァー)は、アメリカ合衆国のポピュラー音楽の作曲家。ブロードウェイでミュージカルのプロデューサーとしても活動した。
略歴
ニューヨーク州に生まれ、セントラルパーク西部のメイフラワー・ホテルの跡地に育つ。父親が裕福な制帽工場の経営主だったため、ニューヨーク州ラーチモントの上流階級に加わった[1]。ウェストチェスター郡ママロネックの私立高校トリニティー・スクールや、ライ市のヘスコート・ホールに籍を置いた。当初はエンジニアをめざして短期間イェール大学に通ったが、中退してウォール街の証券会社に就職した後、徴兵されて第1次世界大戦に出征した。海軍のための慰問団をプロデュースした際に劇場に関心を抱くようになり、戦後に復員してからは、ティン・パン・アレー歌謡の支持者としてTBハームズ社に入社し、次いで著名な作曲家ヴィクター・ハーバートのオペレッタのレペティトゥールを務めた[2]。
ユーマンスのミュージカル・コメディ『ノー・ノー・ナネット』は、1920年代の欧米において最大の成功作となり、挿入歌の《二人でお茶を》と《アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー》は、スタンダード・ナンバーとして認められた。1927年以降は自作のショウのプロデューサーも兼ねた。ユーマンスのもう一つの成功作は、挿入歌《ハレルヤ》で知られる『ヒット・ザ・デック(英語: Hit the Deck!)』(1927年)である。その後のユーマンスの公演は失敗に終わるも、多くの歌がヒットを続けた。ブロードウェイに最後に提供したのは、1932年のミュージカル『テイク・ア・チャンス(英語: Take a Chance)』のための追加の楽曲だった[3]。
ユーマンスは、ブロードウェイの最も優れた作詞家、例えばハーバート・ストサートやオットー・ハーバック、オスカー・ハマースタイン2世、アーヴィング・シーザー、アン・コールドウェル、レオ・ロビン、クリフォード・グレイ、ビリー・ローズ、エドワード・エリスク、エドワード・ヘイマン、ハロルド・アダムソン、マック・ゴードン、バディ・デ・シルヴァ、ガス・カーンらと共作を行なった[2]。アイラ・ガーシュウィンと共作した『トゥ・リトル・ガールズ・イン・ブルー(英語: Two Little Girls in Blue)』の楽曲は、広く評判をとった。次いで手懸けたのが、ハーバックやハマースタイン2世との共作によるショウ『ワイルドフラワー(英語: Wildflower)』である。しかし最もヒットしたのは、シーザーとの共作による『ノー・ノー・ナネット』であった。
1933年、ユーマンスはハリウッドに移り映画「空中レヴュー時代」の音楽を担当した。これはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースがダンスペアを組んだ最初の作品で、2人で踊ったナンバー《キャリオカ》は大評判になった。他の挿入歌《月下の蘭(英語: Orchids in the Moonlight)》はコンチネンタル・タンゴの名曲として知られている。
映画のヒットでキャリアの復活が見えた矢先、翌年ユーマンスは結核を患い、わずか13年間の活動をもって引退を余儀なくされる。ブロードウェイへの唯一の復帰作は、不幸な運命をたどった大興行の『ヴィンセント・ユーマンス・バレエ・レビュー(英語: The Vincent Youmans Ballet Revue)』(1943年)である。このショウは、ラテン音楽と、ラヴェルの《ダフニスとクロエ》などのクラシック音楽とを融合させた野心作で、レオニード・マシーンが振り付けたが、約400万ドルの赤字に終わった[4]。
1946年に結核により病歿。未出版の楽譜を大量に遺したまま亡くなった。
1970年に「ソングライターの殿堂」入りを果たす。
作風
ユーマンスの最初期の歌は、旋律素材の簡潔さが際立っている。2音から4音でできたフレーズが、絶え間なく繰り返され、和声やリズムを絶妙に変化させつつ変奏される。だが、後年になると、明らかにジェローム・カーンに影響されて、より長い楽句や自在に流れる旋律線に頼るようになった[3]。ユーマンスは、同時代の他のソングライターと比べても、限られた数の旋律を盛んに再利用している。正式に出版された歌は100曲にも満たないが、うち18曲がASCAPによってスタンダードと認定されており[3]、これは非常に高い割合である。
映画
- 浮気成金 No, No, Nanette (1930)
- Hit the Deck (1930)
- 赤陽の山路 Song of the West (1930)
- What a Widow! (1930)
- Take a Chance (1933)
- 空中レヴュー時代 Flying Down to Rio (1933)
- ノー・ノー・ナネット No, No, Nanette (1940)
- 二人でお茶を Tea for Two (1950)
- 艦隊は踊る Hit the Deck (1955)[5]
註釈
- ^ Suskin, Steven. "Vincent Youmans". Show Tunes: The Songs, Shows, and Careers of Broadway's Major Composers. Oxford University Press: 2000.
- ^ a b http://www.songwritershalloffame.org/exhibit_bio.asp?exhibitId=288
- ^ a b c Gerald Bordman: 'Vincent Youmans', Grove Music Online ed. L. Macy (Accessed [12 July 2008]), <http://www.grovemusic.com>
- ^ Vincent Youmans. (2001). In The Faber Companion to 20th Century Popular Music. Retrieved April 13, 2008, from http://www.credoreference.com/entry/4413590
- ^ "Vincent Youmans: Film scores", Songwriters' Hall of Fame, accessed January 12, 2013