蜂須賀玄寅
蜂須賀 玄寅(はちすか はるとら、1607年8月3日(慶長12年6月11日) - 1674年11月7日(延宝2年10月10日))は、江戸時代初期の人物。徳島藩蜂須賀家の家老。幼名は鶴松、諱は由秀、由英、由清、玄寅。通称は内膳、山城(山城守)。号は斉藤不白。別名池田玄寅。
父は姫路藩・岡山藩・鳥取藩池田家家老、天城池田家家祖の池田由之(元助の子で輝政の甥)。母は徳島藩祖蜂須賀家政の長女の即心院。同母兄に岡山藩家老の池田由成。異母弟に岡山藩番頭の池田忠義、鳥取藩家老の池田之政。子は養子の興龍(蜂須賀隆矩)、実子の三尾正長(池田正長)。姪(兄の由成の娘)に熊子(大石良昭室)。
妻は近江三井寺山内円満院坊官の西坊胤清(にしのぼうたねきよ)法印の長女の亀(かめ)(宝永4年1月2日(1707年2月)死去、法号は芳林院殿真空妙心大姉、葬は近江錦織屋敷(信天舎・藤の堂)、後に大津新光寺へ移葬)。
生涯
慶長12年(1607年)、姫路にて生まれる。寛永3年(1626年)、外祖父の蜂須賀家政に招かれて、藩主蜂須賀忠英を補佐し家老となる。池田内膳由英と名乗っていたが、後に蜂須賀を名乗ることを許され、蜂須賀山城玄寅と名乗る。寛永5年(1628年)、知行5000石。島原の乱の際に藩船の運用について藩主忠英に進言したところ、将軍徳川家光の上聞に達し賞賛された。乱の後、寛永15年(1638年)、5000石加増される。
寛永19年(1642年)、忠英四男の興龍を養子とする。承応3年(1654年)近江大津上大門町の西坊家屋敷で実子正長が誕生する。万治元年(1658年)、興龍に家督を譲り、京に隠棲して斉藤不白と号す。寛文4年(1664年)、正長と対面し三尾氏を名乗らせる。
延宝2年(1674年)10月10日、京都で死去。享年68。法号は浄厳院殿不白玄雪大居士、葬は南禅寺塔頭慈氏院。導師は南禅寺当住光寺英中玄覚和尚。
なお、玄寅の没後に興龍の嫡男である龍之が蜂須賀宗家を継いで徳島藩主になったことに伴い、興龍も池田家と離縁して公族(藩主一門)に戻ったため、玄寅の家系(蜂須賀山城家)は正長の子孫が継ぐことになった。