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エッダ・ムッソリーニ

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Edda Mussolini

エッダ・ムッソリーニ
(エッダ・チャーノ)
1931年、中国で撮影(中央の人物)
生誕 (1910-09-01) 1910年9月1日
イタリア王国の旗 イタリア王国 フォルリ
死没 (1995-04-08) 1995年4月8日(84歳没)
イタリアの旗 イタリア ローマ
配偶者 ガレアッツォ・チャーノ
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エッダ・ムッソリーニEdda Mussolini, 1910年9月1日フォルリ - 1995年4月8日ローマ)は、ベニート・ムッソリーニの娘で、ガレアッツォ・チャーノと結婚したため後半生をエッダ・チャーノEdda Ciano)として過ごした。チャーノとの間にはファブリツィオ、ライモンダ、マルツィオの三人の子をもうけた。イタリア王国白銀勇敢勲章受章。

生涯

1910年9月1日フォルリにてベニート・ムッソリーニとラケーレ・グイーディの間に長女として生まれた。両親は1910年1月にこの街で同棲を始めていて、彼女は落ちつきのない性格でのちに「マスキアッチョ」(男っぽい)と呼ばれた態度を示していた。彼女は強烈な個性と独立心を持っていた。実際、彼女の父親は後に「イタリアは服従させたけど、自分の娘は決して服従させられないだろうな」(Sono riuscito a sottomettere l'Italia, ma non riuscirò mai a sottomettere mia figlia)と語っている。男勝りの性格もあってか、父がスイス時代の恩師で後に敵対したロシアの女性革命家アンジェリカ・バラバーノフと儲けた子との噂が流れた事もある[1]

1929年にはローマに移り住み、1930年4月24日ローマローマ進軍以前からのムッソリーニのスポンサーであったコンスタンツォ・チャーノen提督の息子ガレアッツォ・チャーノと結婚した。その後、チャーノが上海総領事として赴任した中国に1932年まで生活し、そこで長男のファブリツィオをもうけた。エッダは中国滞在中に夢中となった張学良と恋人関係にあったともされる[2]

1932年10月に来日しており、その際に朝日新聞が架空のインタビュー記事を掲載したと、後年になって当時東京朝日新聞の記者であった渡辺紳一郎が著作の中で自らが創作したものであると告白している[3]。そこではエッダが「日本の駅では『ベニト、ベニト』と盛んに父の名を呼ぶ声がして懐かしかった」と、駅弁売りの「弁当」という売り声から父親のベニート・ムッソリーニの名を連想したと語ったとしている。城戸又一はこれを読んで厳しく批判したが[4]、メディア史研究家である佐藤卓己は渡辺が書いたとされる記事を探したところ、実際の新聞紙上では確認できなかった[5]

1936年にチャーノは外相に就任した。1938年にドイツ航空相ヘルマン・ゲーリングはこの年に生まれた娘に「エッダ」と名付けている[6]

1939年イタリアのアルバニア侵攻後、アルバニアの港町サランダは、エッダの名にちなんでポルト・エッダと改名された。また7月にはタイム誌の表紙を飾り「Lady of the Axis(枢軸の淑女)」というキャッチフレーズが付けられた[7]

第二次世界大戦

第二次世界大戦中のギリシャ・イタリア戦争時にはイタリア赤十字社のボランティアとして活動した。 1941年3月14日には彼女の乗っていた病院船ヴァローナ(en)がアルバニア沿岸でイギリス空軍の攻撃を受け沈没した。しかしエッダは泳いで岸にたどり着き、一命を取り留めている。その後1943年までアルバニアで赤十字の活動に従事した。

夫の助命活動

1943年7月、父ムッソリーニがファシズム大評議会で糾弾され、指揮権を国王に返還した上で首相を解任、逮捕された。エッダの夫でありファシスト党の幹部であったチャーノもムッソリーニの解任に賛同している。しかしその後、ムッソリーニがドイツの手によって解放され(グラン・サッソ襲撃)、ドイツの傀儡国家イタリア社会共和国が成立するとチャーノの立場は危険なものとなった。チャーノとエッダの家族はドイツで軟禁状態となった。ヒトラーはチャーノら「反逆者」の処刑を要求したが、ムッソリーニはチャーノの助命嘆願をしている[8]

エッダはチャーノとともに南米行きを父ムッソリーニやヒトラーに訴えたが、ヒトラーはチャーノが回想録を出版する計画を持っていることを察知して拒否した。これを受けてエッダはムッソリーニに「南米行きを援助してくれなければ、ムッソリーニの大スキャンダルを世界に公表する」と手紙を送った[9]。しかしチャーノは10月に逮捕され、ヴェローナのスカルツィ監獄に収容された。11月には代議員大会で裁判が決定され、1944年1月8日から裁判が開かれることになった。エッダはチャーノの救出のため、3人の子供をスイスに逃がし、ムッソリーニにチャーノ解放を訴えた。しかしムッソリーニは目に涙をためて拒否し、エッダは父の部屋を飛び出した。エッダの兄、ヴィットリオの回想によるとエッダは「見ているがいい」と連呼した後に、「私はどんなことがあっても、夫の生命を救ってみせる。子供たちの父親を助けるのが、妻のつとめよ。そのためには、親も家族も、いいえ、全世界を敵にしてもやってやるわ」と叫んだという[10]

チャーノ秘密日記

エッダは取引材料としてチャーノの秘密日記14冊を所持していた。この日記には1937年8月23日から1943年までの機密情報が多く記述されており、ドイツ側としても公表を恐れていた。SD長官エルンスト・カルテンブルンナーは取引に応じるとして、日記の一部を要求した。エッダは重要ではない会議記録分6冊をドイツ側に渡し、コピーさせた。カルテンブルンナーはエッダとの取引を実行するため、チャーノの脱獄計画『伯爵』をたて、ヒトラーに計画実行の許可を求めた。『伯爵』はスカルツィ監獄を占領し、チャーノをヴェローナ郊外で解放、そしてチャーノがトルコに到着した後に日記を渡すという内容であった。しかしヒトラーは「ムッソリーニの問題」であるとしてドイツが介入するべきではないとして、作戦を却下した。しかしエッダに計画中止の連絡はされなかった。

1月7日午後8時、『伯爵』の実行予定日時にエッダは日記を携えて夫の解放地点に向かった。エッダが乗っていた自動車は途中でパンクしたため、通りかかった農夫が乗っていた自転車のハンドルの上に座って解放地点に向かった。しかし約束の時間になっても誰も訪れず、エッダは『伯爵』が実行されなかったことを知った。エッダはなおも夫の解放を諦めなかったが、エッダに同情したドイツの連絡員の女性に逮捕が必至であることを告げられると、スイスに亡命することを決めた。

夫の死と父との絶縁

チャーノらの裁判が行われたヴェッキオ城en

1月9日、ヴェローナの裁判でチャーノ等に死刑が求刑された。午後、エッダは日記を腹部にくくりつけて、妊娠した農婦に変装した上でスイスに亡命した。出発前、ヒトラー、ムッソリーニ、イタリアに駐在する南方軍集団司令官アルベルト・ケッセルリンクにあてて手紙を書き、連絡員の女性に手渡した。この手紙で重ねてチャーノの解放を求め、解放が成されなかった場合に日記を公表するという内容であった。父ムッソリーニあての手紙では、父親を「ドゥーチェ」と記し、父とは呼ばなかった[11]。連絡員はエッダが逃亡する時間を稼ぐため、10日になって手紙をドイツ側に手渡した。しかしこの朝にヴェローナ裁判では判決が下り、チャーノにも死刑判決が下った。死刑判決を受けた者達は特赦願いを提出したが、ファシスト党書記官長アレッサンドロ・パヴォリーニen)が握りつぶした。1月11日、エッダの手紙を受け取ったムッソリーニは早朝にイタリアの親衛隊及び警察高級指導者カール・ヴォルフに介入するべきか相談したが、ヴォルフは不介入を勧告した。このためムッソリーニは動けず、午前9時20分になってチャーノ等は処刑された。後に特赦願いが出されていたことを知ったムッソリーニは、「処刑前に渡されていたら受理しただろう」と述べている[12]

やがてムッソリーニはエッダがスイスに亡命したことを知り、娘と和解して日記を取り戻すため、密使としてエッダの幼友達であるパンチノ神父をスイスに送った。しかしパンチノ神父と面会したエッダは「ドゥーチェが選ぶ道はただ二つ、地の果てに逃げるか、自殺するかだ」と述べて和解を拒否した。パンチノ神父の行動を察知したドイツは、日記の奪回をパンチノ神父に依頼した。しかしパンチノはエッダに日記が狙われていると告げ、スイスの銀行に預けさせた。その後、エッダはアメリカの新聞「シカゴ・デイリー・ニュース」と日記の掲載契約を結んだ。

戦後

1945年、エッダはイタリアに帰国した。その後イタリア政府に逮捕され、リーパリ島に幽閉された。12月20日、ファシスト党への協力のかどで2年の実刑を受けた。

1945年7月、シカゴ・デイリー・ニュースでチャーノ日記のうち1939年から1943年までの連載が開始された。その後、アメリカとイタリアで単行本が出版され、1953年には1937年から1938年までの分をまとめた単行本が出版された。ただし、1939年から1943年の日記には、エッダが削除した部分があり完全ではない。

1995年4月8日ローマにて死去した。

自伝・伝記

  • Edda Ciano La mia vita (Mondadori, Milano, 2001)
  • Giordano Bruno Guerri Galeazzo Ciano (Bompiani, Milano, 1979)
  • Giordano Bruno Guerri Un amore fascista (Mondadori, Milano, 2005)

参考資料

脚注

  1. ^ ニコラス・ファレル & (2011)上巻, p. 100.
  2. ^ Kristof, Nicholas D. (19 October 2001). "Zhang Xueliang, 100, Dies; Warlord and Hero of China". The New York Times. ISSN 0362-4331.
  3. ^ 渡辺紳一郎「わたしの記者生活」『ぶんさん行状記』四季社〈四季新書〉、1955年、183-185頁。doi:10.11501/2932562 
  4. ^ 城戸又一「ぶんさん綴方教室」『誤報』日本評論社、1957年、166-168頁。doi:10.11501/2932724 
  5. ^ 佐藤卓己「与太記事「弁当とムッソリーニ」」『流言のメディア史』岩波書店岩波新書〉、2019年、171-175頁。ISBN 978-4-00-431764-7 
  6. ^ Foreign News: Lady of the Axisタイム誌、1939年7月29日号
  7. ^ TIME magazine cover: Edda Ciano, 24 July 1939.
  8. ^ 児島、第6巻、142p
  9. ^ 児島、第6巻、148p
  10. ^ 児島、第6巻、208p、エッダの言葉部分は引用
  11. ^ 児島、第6巻、217p
  12. ^ 児島、第6巻、223p、ルドルフ・ラーンde)の回想