河窪信俊
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 寛永16年2月14日(1639年3月18日) |
別名 | 新十郎、与左衛門(通称) |
戒名 | 道二 |
墓所 | 輪禅寺(埼玉県小川町) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 武田氏族河窪氏 |
父母 | 河窪信実、染土河内守の娘 |
兄弟 | 信俊、小笠原長巨室 |
妻 | 正親町三条公仲の娘 |
子 | 信雄、信世[1]、信房[2]、信宅[3]、信次[4]、信通[5]、信本[6]、女子2人 |
河窪 信俊(かわくぼ のぶとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。
生涯
河窪氏は甲斐国の戦国大名武田氏の一族で、父信実は武田信玄の弟にあたる。信実は天正3年(1575年)長篠の戦いで戦死した。天正10年(1582年)武田氏滅亡後、甲斐国には徳川家康が入った。その時に家康に信実の遺児として召され、河窪の地を与えられてその配下となった。天正壬午の乱では柴田康忠の麾下に加わり、佐久郡前山での戦いや蘆田小屋の戦いで戦功。天正11年(1583年)小諸城や岩尾城の戦いでも一番槍の活躍をし、甲斐国内に新領を与えられる。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは自ら3の首級をあげるなど活躍。天正18年(1590年)小田原征伐では平岩親吉の麾下に入って岩槻城攻めに従い、敵将山口平内を討つなど貢献した。戦後の関東移封では武蔵国比企郡・加美郡に移った。天正19年(1591年)九戸政実の乱では岩出山城まで出張。慶長3年(1600年)関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)大坂冬の陣、翌夏の陣にも従軍した。その後は伏見城大番頭、1600石の旗本となった。寛永3年(1626年)致仕。
家督は長男信雄が継承。次男以下も旗本、紀州家、水戸家に仕えた。なお嫡孫信貞の代に武田氏に復姓している。